我が国で公的主体が担う賭博行為は合法で、そうではない主体が賭博行為を主催する場合には違法となるのはなぜであろうか。刑法第35条の規定(正当行為)に則り、個別の法律により特例的に公的主体がかかる行為を担う正当性が認められているからに他ならない。我が国における公営賭博も、その賭博種毎に個別の法律により、公的な主体が一定の賭博行為を担うことを正当事由として認めている。これにより、違法性が阻却されているわけである。
その担い手が公的主体であるという背景は、①賭博行為に伴う収益を公的主体が独占できること、またこれが法目的そのものであること、②公的主体が担うことにより、限りなく不正を防止することが可能となり、公正さ、透明性を担保することができること、③悪や組織悪の介在を防ぎ、健全な賭博行為を国民に提供できる可能性が高まること、④射幸心を煽る行為を自制的に管理できることなどという理由があるからによる。もっとも、公営賭博とは、たとえば地方公営競技を例にとると、その施行が公益の実現を目的としたものであるにせよ、地方財政法上は公共団体が為す単なる営利事業(即ちお金儲け)として定義されている。果たして公的主体自らがかかる賭博行為を市民に提供し、その消費を煽ることが正当化されるのかという議論が過去も現在もある。例えばかなり昔の話になるが、美濃部東京都知事があくまでも倫理的な問題から、政治公約として公営賭博廃止を主張し、東京都が主催者となる公営賭博を廃止・撤退したときの議論等がある(これは例え税収があっても公的主体が賭博を主催することは倫理的に適切な行為ではないという単純な理屈でもあった)。類似的な倫理的主張は現在でも存在する。また、例え正当化されていても、かかる業務は、本来公務員が担うべき業務といえるのかどうかという議論も常にある。適切な規制を設け、民間主体にその施行をリスクと共に委ね、公共団体はあくまでも主催者として、その一部収益のみを確保した方が、より効率的な運営の手法となり、かつ顧客に対するサービスも改善されるのではないかとする意見も根強い。事実2007年度の公営競技関連法改正により、民間委託の所掌はかなり増えることになり、費用を縮減するため包括的な運営委託に近い民間委託が一部公営競技において実現している。これは全てを公的主体が仕切るという従来の考え方から大きな変化があったことを意味している。時代の変化でもあるのだろう。
もっとも、より重要なのは何のためにかかる行為を行うのかという政策目的にある。正当な「公益目的」があり初めてかかる公営賭博が認められるという制度上の建前になるからである。この場合の公益目的とは、既に述べたように、昔も今も賭博行為により、確実に一定の収益を上げ、公的主体がこれを新たな財源とし、当該収益を公共目的のために支出するということにある。我が国の公営賭博の過半は昭和20年代中葉から末頃、戦後の復興時点で設けられた制度でもあり、法の目的は既に現実とかなり矛盾してしまっている。例えば競輪において、自転車の輸出振興やそのための財政支援等の目的は50年前ならともかく、現代社会で最早価値があるとも思えない建前でしかない。その他の公営賭博法も全く同様である。「当面の間」として設けられた制度が、国や地方公共団体にとり、重要な財源の一つとなってしまった為に、法律上の公共目的や資金の使途目的を段階的に、制度的に追加して、現在に至っていることが現実である。この様に、一端制度ができ、それなりの収益や税収効果や様々な経済効果がある場合、その存続自体が目的化し、制度的に根づいてしまうのであろう。地方公営競技の場合、国は収益の一部を徴収するためのメカニズム(JKA等の振興法人)を設け、売上の一定率をかかる主体に交付させる仕組みが制度化されている。2011年に開催自治体の窮状を救済するための制度改革が議論された際に、この交付金を廃止すればという議論に対し、交付金が廃止になれば、公営競技自体が違法性を帯びる(即ち違法性阻却事由たりえない)等というおかしな主張がなされたという経緯がある。振興法人を維持し、交付金を継続すること自体を法目的化するという主張がまかり通っているわけである。救済すべきは振興法人ではなく、主催自治体なのだが、主客が転倒した考え方になる。これでは健全な施行等実現できるわけが無い。
公営賭博は制度創設後、既に半世紀以上を経ている。この間、公営競技を巡る環境や市場は大きな変化を遂げており、この変化に制度や施行自体がついていけていない状況にある。事実、既に十数年にわたり、公営賭博の市場規模と関連収益は継続的にかつ段階的に減少しつつある。この結果、一部の地方公営競技は開催しても費用すら賄えなくなってきており、抜本的な制度改革や経営改革が必要な状況になりつつある。公営賭博は何のためにあるのか、なぜ認められるのか、その目的に遡り、議論が必要な時代が来ている。