器具や用具を用いる遊びやゲームは昔からあるが、これを用いる賭け事は本来相対する人間同士がこれを担って始めて成立する。この意味では過去、常に賭博行為とは、器具や機材を使用したりするが、あくまでも対人関係の枠組みの中で実現する人間同士の営みが基本でもあった。この状況が一変するのは1887年米国人チャールズ・フェイが発明したという機械式賭博であるスロット・マシーンの登場である。スロット・マシーンとはコインを投入することにより遊べる単純な僥倖を期待する人間と機械とが対峙するゲームになる。回転式のリールに複数の絵柄を記載し、コインを投入し、機械的な力を与えることにより、複数のリールが動き、これらの絵柄がマッチした時があたりになり、一定数のコインが賞品として出てくるという仕掛けでもある。この機械式賭博は賭博の世界に新しいコンセプトをもたらしたといってもよい。
この特徴は、①賭博行為の個人化を実現したこと(相手は機械にすぎず、優れて個人の世界で、自由にかつ気ままに、いつでもまた如何様にも賭博を楽しめる)、②ルールが単純で、実際の遊びも早く、時間がかからないこと(ルールも何もなく、誰もが単純にすぐ遊べる、かつ一回のゲームのシクエンスは極めて短い)、③単純な僥倖による帰結を楽しむだけで、人間の関与も操作も全くないこと、等になる。
一方、施行者側からこれをみると、その特徴は、①機材整備のための資本コストは他のゲームより高いが、確実に人件費、運営費は削減できること、②運営費用は機械の維持管理やコインの充填、取り出し等に限定されるため、顧客が沢山遊べば、運営段階における費用は逓減し、収益性は極めて高くなること、③多様な顧客に多様なコンテンツの賭博を提供できることから、従来にはない多様な顧客を呼び込み、遊ばせる効果的なツールになること、④人間が介在しないということは、限りなく正確、かつ不正が為される余地は限定されることなどになる。この何の変哲もない機械ゲームは、市場にて多くの顧客をとらえる魅力的な商品となり、大きなブームを呼ぶと共に、急速に市場が拡大、かつ米国のみならず諸外国にも伝播していった。我が国の遊技や、コンピューターによるゲームも類似的な側面を持っているともいえるが、「機械を相手にして遊ぶ」という事象は現代社会における遊びの一つの発展形態なのであろう。この機械式賭博ゲームは、単純な機械式から、コンピューターの発展や、モニター映像技術の発展などから段階的に情報電子化され、その遊び方や賭け方が飛躍的に向上した(例えば、画面上のバーチャルなリール数の増加、支払いが起こる組み合わせとなるペイラインの増加、ボーナス画面やボーナスゲームの追加、3-D画像などで射幸性と遊び心をくすぐる様々な仕掛けなどである)。
この結果、ハウスにとり、機械ゲームとは設置スペースがあり、かつ多様な機械ゲームを設置することができれば、確実に収益が確保できる仕組みということになった。しかし、全てが機械ゲームだけであるならば、カジノとはいえなくなる。カジノの伝統的な雰囲気を残しながら、機械ゲームをも楽しむことができるという形でバランスを取ることが現代カジノの生き方になった。もっとも、カジノの雰囲気を保持するために、法令・規則で機械の最大設置数を制限したり、テーブル・ゲームと機械ゲームの設置数の比率を法令・規則で制限したりすることがある。機械ゲームとは人間であるデイーラーが不要なゲームでもあり、対人関係が苦手な顧客や、ルールを覚え戦略を考えるゲームではなく、より単純な、早いゲームを志向する顧客、賭博行為を単なる時間消費としてとらえ、機械と遊ぶことを楽しむ顧客など、従来にはない顧客を集客することに効果を上げたとともに、多様なゲーム種、多様な賭け方により、ハウスの収益の底を押し上げることに成功したことは間違いない。
では規制や制度上のポイントはどこにあるのか。スロット・マシーンの電子化、情報化とともに顧客は機械が本当に公正かつ公平なゲームを提供されているのかを知ることはできなくなってきている(これを情報の非対称性という)。この結果、この事実を悪用し、本来僥倖を楽しむ遊びであるはずの機械に、人為的な操作を加え、顧客を騙してしまうというリスクが存在する。この場合、ハウスは確実に儲かり、顧客は単純に騙されているにすぎないということになる。だからこそ、公平な僥倖性を確保するために、第三者たる規制機関によるあらゆる許諾や規制、認証の手続き等が機械ゲームには要求されるわけである。