所謂闇賭博、あるいは闇カジノとは、暴力団組織等が非合法的に、全くの闇で開帳する小規模のカジノである。かかる違法闇賭博は、本来徹底的な取り締まりを図れば、存在しなくなるはずなのだが、古今東西、この類の話は常に存在し、かつなくなったこともない。我が国でもしかりであろう。現代社会におけるかかる闇カジノだが、胴元は当然暴力団組織なのであろうが、顧客の方は普通の人になる。賭博を開帳する胴元もこれに参加する顧客もいずれも違法なのだが、顧客の側にはあまり罪の意識が生まれない、あるいは罪の意識は無い。自分の金をどう使おうが自分の勝手ではないかという感覚が強く働き、違法行為をしているという意識が薄くなるからである。この様な顧客がいる限り、いくら取り締まりを厳しくしても、暴力団組織によるかかる不法行為は中々無くなるものではないのが世の中の常である模様だ。
厳格な取締りを実施することが本来あるべき筋ではあるが、闇賭博を根絶する最も効果的な手法は、逆説的だが、カジノを一定の公的管理のもとで制度的に認めて、合法化してしまい、規制の対象とすることにあると主張する向きも多い。なぜならば、善良なる市民や顧客はそこにカジノがあるから合法、違法を問わず誘導され、参加してしまうわけで、結局その行為が何をもたらすかをよく理解せずに、違法行為をするというリスクを負ってしまっているからである。違法な領域ではなく、合法な、管理された安全かつ健全な領域が別途存在し、こちらへ市民や顧客を誘導することができれば、顧客は危険をおかして違法領域には行かなくなる。善良な顧客は確実に合法ゾーンに行き、リスクのある違法ゾーンには行かないだろうという見立てである。お客が行かなくなれば、闇賭博は商売としては成立しなくなることは間違いない。これは、確かにゲーミング・カジノを認めることによる一つの明示的な効果にはなる。一種の副次的効果は明確に存在するということであろう。もっとも、闇賭博撲滅を目的とするために、ゲーミング賭博を認めろと主張する意見もあるのだが、これでは、ことは本末転倒になってしまう。
類似的な事象が、インターネット賭博を巡り、これを認める立場と禁止する立場の国の違いにも現れている。サイバー賭博への参加は、一国の法律で明確にこれを禁止していても、サイバー世界へのアクセスを禁止する完璧なかつ有効な手法は今の所存在しない。かつ摘発も限りなく難しく、胴元が外国にいるようでは、そもそも犯罪の構成要件が成立しない。そこで、インターネット賭博は禁止するよりも、逆に積極的にこれを認めることを前提に、サイバー市場における施行者にライセンスを付与し、施行者の健全性、清廉潔癖性、システムの公平さ、いかさまが無いことを確認するために、事業者を適格性審査の対象とし、かつサーバー自体を自国に設置させ、売り上げに税金を課すわけである。一国の認証を得て、ライセンスを取得しているという事実は、これのみで顧客に対し、その安全性、健全性を保証することに等しく、顧客や国民が自己の責任により、サイバー世界における安全、健全な領域、施行者を選べばよいということになる。つまり、安全、健全な領域をサイバー世界の中に創設してしまい、自国民や顧客をここに誘導することにより、ライセンスされた主体と顧客を保護し、ライセンスを受けていない主体には顧客が行かないように誘導することを上記は意味している(この場合には、インターネット・カジノを根絶することは不可能だが、国民を安全な領域へ誘うことにより、国民をリスクのあるネット・カジノから守るという目的になる)。
いずれの考え方も、何らかの誘引を設け、顧客となる国民や市民を健全かつ安全な領域へと誘導する施策をとることを意味する。国民や市民がこれを支持すれば、顧客は非合法な領域には行かないわけで、時間の問題で不法行為は自然に廃れることになる。オープンかつ透明な手法により合法性、安全性、健全性が担保されれば、善良なる顧客を惹き付けることができるとする考えは得られる副次的効果としては正しい。尚、この手法は、競馬や競輪のノミ行為には当てはまらない。ノミ行為とは控除率を公的主体より意図的に低く設定し、顧客に対し配当をより多く与えるという経済的誘引で顧客をつっているからである。公的主体が法律で定められた控除率を自由に下げることはありえないため、これに対抗する手段は、厳格なる摘発しかないということになる。