米国ウイットモア大学のネルソン教授によると米国では歴史上、賭博行為は認められたり、禁止されたりしてきたが、大きく分類すると三つの波(ブーム)が存在したという。波とは賭博が盛んに行われた時代を意味するのだが、最初の波、第一次ブームとは植民地時代の1600年から独立後の1800年中葉までの頃になる。植民地時代の米国では、賭博を認めるか否かに関しては、植民地毎に異なった考え、方針が存在した。許容できる余興と考える地域もあれば、倫理的、宗教的に反対した地域もあった。もっとも、現実には13の植民地の全てが、植民地経営の財源を確保するために、ロッテリー賭博を実施したという事実がある。商業的賭博は、立ち上がりの植民地にとっては、貴重な税収源でもあったわけで、その収益は、様々な公共施設の整備財源として利用された。本国の英国は、1769年に、これでは本国に富が戻らないとして、植民地のロッテリーを禁止したが、植民地はこれに反発し、これが、独立戦争の一つの遠因になったともいわれている。
一方、遊興としてのゲーミング・カジノは、段階的に、かつ自然に庶民の中に浸透し、発展していった。西部開拓の時代の宿泊所や飲屋などではさいころやカードのゲームが認められていたが、組織的にこれを顧客に提供するという業は中々生まれにくかった。人口が増えるにつれ、1800年代初期には、ミシシッピ川下流域では賭博行為は、合法化され. 組織的に実施されていたという。南部では、スペイン、フランス等思想的には自由な雰囲気の宗主国の影響を得て、賭博には寛容であった。この後、人々の移動が盛んとなる河川の都市及び河川を移動する為の船舶内部に賭博施設が設置され始め、旅行者等を顧客とし、プロの賭博師が参加し、繁盛したが、いかさまも多かった模様である。1830年代には、プロの賭博師の活動は、治安を乱し、犯罪の原因となり、社会のモラルを低下させているとして社会の批判を浴び、規制されるようになった。一方米国社会には、宗教的信念に基づく倫理的価値を理由として、賭博行為に反対する社会的勢力も常に存在した。この動きは、ロッテリーを含む賭博行為全体の反対運動に繋がり、ロッテリーに関するスキャンダルの横行により更に燃え上がった。女性の権利、教育改革、刑務所改革、奴隷廃止などの社会改革運動が国民の頭にあったころである。これら社会改革派のより大きな動きに賭博禁止派は政治的な力を得たのだろう。市場に干渉すべきではないという意見もあったのだが、逆に徳に生きるべきという意見も強く、これが全米レベルでの制度としての賭博禁止へと繋がっていった。
賭博行為に対する攻撃は、特にロッテリーに集中した。ロッテリー賭博の運営者に付与された独占的な権益とこれを悪用したスキャンダルの横行は、改革主義者にとり、格好の非難の対象になりやすかったからである。1833年にペンシルベニア州、ニューヨーク州、マサチュセツ州がロッテリー賭博を禁止し、その他の州もこれに続き、1840年までに米国の殆どの州がロッテリーを禁止してしまった。1860年には、デラウエア州、ミゾウリ州、ケンタッキー州のみが、州政府公認ロッテリーを実施していたのだが、これらの限られた州のロッテリー券が、何と国中に送付され、裏で売却されていたという。これら禁止行為はまた、違法ロッテリーを国中に普及することにも繋がったわけである。一方、鉄道の建設と南北戦争が、南部諸州で流行していた交通手段としての河川就航船舶内におけるギャンブルを変えることになった。船舶利用の旅行は減り、鉄道を使うことが移動の主流になったからである。南北戦争は、全ての船舶による旅行を中止させ、これに伴い、かかる地域における賭博行為を減少させるという事象をもたらした。 これが第一のブーム(波)の終焉になる。
もっとも、ブームが終焉したとはいえ、法律上許諾された賭博が全て無くなったわけではない。西部のフロンティア地域では、第一の波の後も賭博は継続して市民社会の中には存在した。また地域によっては、禁止対象は一部の賭博種だけで、全ての賭博種を対象にしていなかった。例えば、ニューヨークでは、元売りのいかさまにより、ロッテリーは禁止の対象となったが、豪勢な私的クラブ等では賭博は合法でもあった様だ。また競馬はこの時点では特段禁止の対象とならずに第一の波を乗り越えている。