米国における第二の波は1800年代中葉から1900年代初期頃までになり、西部開拓がこれをけん引したという背景がある。賭博行為は開拓者と共に、自然と東部から西部に移り、ゴールドラッシュによる人と金の集中により、更に盛んになる。この頃、カルフォルニアはかってのニュー・オリアンズを越えて米国における賭博の中心地となっていった。カルフォルニアにおける賭博の絶頂期は1849年から1855年にかけてである。州内で賭博行為はかなり盛んに為されることになったが、これに伴い、今度は逆に、賭博がもたらす様々な社会的病理を市民が認識するようになり、民意は、賭博禁止へと動いていくことになる。例えばカリフォルニア州では、この後、ほとんどの賭博種が禁止されることになるのだが、規制の本来の目的は、プロの賭博師を対象としたもので、一般的に賭博を禁止するものではなかった。ところがこれら賭博師は市当局の腐敗にも関係し、当時の不景気の元凶ともいわれる始末で、次第に賭博行為自体が非難の対象になっていく。1856年にはプロの賭博師に対する市民によるリンチがサンフランシスコで起こり、社会的不安や政治的不満が市民による暴発に繋がっている。
もっとも、制度的には州法の規制は甘く、賭博行為を禁止した所で、実質的に何らの影響もなかった。賭博種の名前を変えたり、変種を考案したりしてごまかし、堂々と賭博行為はなされていたと共に、摘発されても、罰金そのものが軽かった為、有効な規制とはならなかったわけである。但し、法律自体は段階的に厳格化され、1860年には、カルフォルニア州では全てのバンキング・ゲームを提供することが禁止され、1885年には顧客として遊ぶことも禁止の対象となった。この様にカルフォルニア州ではほとんどの賭博行為は違法であったのだが、必ずしも全てではない。1895年にサンフランシスコで発明された最初のスロット・マシーンは、その後すぐ市場に登場し、人気を得て存続しており、これは1911年まで特別に禁止されていたわけではない。 隣のネバダ州では、賭博行為の許諾と禁止を交互に繰り返している。1869 年から1910年まではネバダ州では賭博は合法だった。この結果、商業的賭博行為はカルフォルニア州からネバダ州に段階的に移っている。もっとも、法的には保護されていたとはいえ、当時ネバダ州の賭博行為はサンフランシスコの規模までは至っていない。
一方、南部の諸州は、南北戦争後の復興資金を確保するために、再度ロッテリー賭博を再開することになる。1868年にルイジアナ・ロッテリー・カンパニーが許諾を受け、25年間の許諾を取得したが、実態はニューヨークからきた犯罪組織が、なんとルイジアナ州議会を買収し、ロッテリー法を制定、犯罪組織が独占的な利権をもってロッテリーを牛耳る構図ができてしまった。ルイジアナ・ロッテリー自体は、州際間事業として構成され、その収入の90%以上がルイジアナ州外からのものでもあった。この制度で守られた25年間のライセンスを無効にしようとする様々な試みがなされたのだが、議会に対する賄賂により失敗に終わる。このスキャンダル並びに反賭博感情が州政府、連邦政府によりロッテリーを全面的に禁止しようとする全米各地での規制創出につながったことになる。特に、宗教的な主導者は、ロッテリー反対運動の先頭にたった。1878年までには、ルイジアナ州はこの国の最後の法的に許諾されたロッテリーともなり、1895年になり、ようやくルイジアナ・ロッテリーは廃止されている。ロッテリーが廃止されたとき、結局そのプロモーターは巨額の不正資金を懐にしたことが発覚、議会は賄賂で糾弾された。かかる騒ぎの結果、世紀末には、(カルフォルニアを含む)35の州で、ロッテリーは各々の州憲法により禁止されるに至り、その運営を認める州は皆無となった。 競馬もいかさまに悩まされていた。オッヅや支払もインチキが横行したという。賭けをとるブックメーカーが、馬主であることも多く、勝敗に影響を与えることができたからである。
この第二の許諾賭博流行のブームは、比較的短期でもあり、スキャンダルとビクトリア朝風の倫理観が、許諾賭博を終わらせることに貢献した。1910年までに、実質的にあらゆる賭博が米国内において禁止の対象となっている。もっとも、許諾賭博の禁止とともに生じたのは、何と違法賭博の摘発でこれは違法賭博があまりにもはやっていたという事情による。禁止した所で、無くならないというのが賭博の実態で、米国における賭博事情でもあったのだろう。