ネバダ州では、ゲーミング・カジノは歴史的に、その時代、時代で認められたり、禁止されたりしてきたという経緯がある。20世紀では、1910年に一旦禁止されたが、違法賭博が横行し始めたため、逆にこれを認め、規制と課税の対象にする政策的意図をもって、1931年に合法化したという経緯がある。この背景には、当時大恐慌に伴う経済対策をとる必要に迫られたことと共に、フーバー・ダムの完成を睨んで、観光客を呼び込もうとする思惑があったことは間違いない。もっともこの合法化によって、直ちにネバダ州やラスベガス市が発展したわけではなく、当初の16年間は、賭博業は大きな産業として成長するには至らなかった。ダム建設に伴う労働者の遊興手段としてのカジノ施設は存在したが、極めて特殊な、顧客が限られた単純遊興賭博施設でしかなかったからである。
ラスベガスに単純賭博施設ではなく、最初にホテルが併設された宿泊が可能なカジノ・ホテルができたのは1941年のエル・ランチョ・ベガス(El Rancho Vegas)と言われている。顧客が一定期間滞在することで、多様なエンターテイメントを楽しむ中にカジノ施設を配したこの施設はそれなりに人気を博すことになった。一方今日に至るカジノ・リゾートの端緒は第二次世界大戦後の1946年にできたフラミンゴ(Flamingo)であろう。これらの施設はいずれも西部の牧場をイメージし、多様なエンターテイメントやアメニテイー機能を包含する新しいタイプのカジノ・ホテルでもあった。フラミンゴは、当時ニューヨークのマフィアであったバグジー・シーゲルが、マフィアの資金をもって建設した施設である。但し、この施設はその後のラスベガスの性格を大きく変えるものであったことは間違いなく、ハリウッドの著名タレントによるショー、質の良いサービスのホテルとカジノ、多様な余暇手段の提供など、リゾートとカジノを機能的に結びつけた初めての独創的な施設事例でもあった。これが成功した前例となり、以後、ラスベガスにカジノ・ホテルの建設ブームをもたらすことになる。
ラスベガスの当初の発展と組織悪(マフィア)の存在は、切っても切れない関係にあるが、1940年代後半から50年代にかけての同市の発展は、マフィアの資金が、新たな施設整備を支えた結果により生じたものといっても過言ではない。金融機関は、まだカジノを信用せず、だれも資金を貸し出さなかった。リスクはあるが、効率の良いビジネスとしてマフィアが裏でその資金を支えたことになる。1950年代は、戦後の大きな発展の時代でもあり、高速道路や民間航空機網などのインフラ施設の発展や、エアコンの普及などもあり、ラスベガスにおいてもリゾート建設ブームをもたらした。1957年には民間ジェット機がラスベガスに就航し、一般観光客が訪問できるインフラが整備されたことも、発展の大きな好機となった。マフィアの資金が関与していたとはいえ、顧客に対しては、公正さ、安全さと秩序保持が確保されていたわけで、当時ラスベガスは、唯一賭博が合法化されている場所として、全米から高額賭け金顧客(ハイ・ローラー)やバカンス顧客を集めることになった。かつそのリゾート性や話題性が全米の注目を浴び、ラスベガスの発展の礎が整ったことになる。もっとも、大きな社会的問題は、売上の重要部が組織犯罪に抜き取られ(スキミング)、脱税や、立法府、行政府への賄賂も存在し、経営者も労働組合も職員もこれに密接に絡んでいる体制ができていたことにあった。これを問題視し、組織犯罪の排除と、厳格なる規制、法の執行を要求してきたのは、50年代の連邦議会、上院に設けられた組織犯罪特別調査委員会でもあった。これを契機に、ラスベガスは大きく変わることになる。
このように1950年代は、①戦後の発展の時期でもあり、ラスベガスでも建設ブームをもたらし、現代に至る礎を築いたが、一方、②このブームに伴い、マフィアがカジノ業へ浸透していったという事実が平行的に存在した。他方、③連邦議会や連邦政府が組織暴力を問題視する政策を主張し始め、これらを排除すべくネバダ州に圧力をかけたことも事実であり、④これに対処すべく、州政府としても50年代中葉以降、段階的に規制の内容を厳格にし、法の執行を強化していったという激動の時代でもあった。ラスベガスは1960年代から70年代を通じ、段階的に制度が緻密になり、強化され、これに伴いマフィアも段階的に排除されていったという歴史をたどることになる。これは賭博行為が健全化、安全化する過程とも重なった。