ネバダ州のカジノの健全性と安全性は半世紀に亘る努力と経験の結果により、実現したものである。犯罪組織の介在や犯罪の横行を未然に防止する最も効果的な手法は、好ましくない主体、リスクのある主体を絶対施行の枠組みの中に入れさせないことにあり、厳格な参入規制はこのためにある。この結果、施行に関与するために、ライセンスを申請する主体にとり、過剰とも思える要求や規則が存在する。この負担は規制者とライセンス申請者・取得者双方にかかるのだが、既にマフイアの痕跡は見当たらない現代社会のゲーミング・カジノにおいて、最早過剰ではないのかとする議論も存在する。
たとえば下記諸点等がある。
(a) ライセンス申請費用負担の合理性(歯止めがない費用分担):
ゲーミング関連ライセンスの申請者は過去20年にわたる詳細な個人情報を精査される。実際の審査業務を担う法の執行機関であるゲーミング・コントロール・ボードは、審査に必要となる作業に対し、申請者に時間あたり$70、出張がある場合、実費及び時間あたり$65、残業に時間あたり$100を要求し、申請者がこれを支払えない場合、申請は拒否される。申請者は全ての費用を負担する義務があるが、その費用が合理的な支出か否か、無駄はないのかを検証できる制度はない。何らかの合理的な判断基準を設けるなり、支出の妥当性を第三者機関がモニター、検証し、費用を監査することが必要ではないかという意見が強い。
(b) 権利放棄に関する課題(権利放棄は過剰):
ネバダ法では、申請者の弁護士は、規制機関に対し、適切な主体のみがライセンス取得者となることを確保する義務を負っている。この義務規定は、弁護士に対し、申請者情報の全てを規制機関に開示することを要求する。この場合、憲法上の権利ともなる弁護士と顧客の関係に関する特権(attorney-client privilege)を放棄することを意味するが、これが本当に必要かとする議論である。弁護士~顧客間の電子メールも含めたすべての文書の開示は必要かもしれないが、口頭による対話の内容までは必要なかろうとする考えがある。これにより顧客は弁護士を信頼するし、顧客は潜在的な問題を弁護士に相談しやすくなる。
(c) 司法上の再審要請の考慮(司法上の救済措置を認めるべきとする主張):
現状のネバダ法はライセンスの拒否に関する規制機関(ゲーミング委員会)の行為、決定、命令に関する司法上の見直し(法廷による再審あるいは上訴)を認めていない。ネバダ州最高裁は、ゲーミングは合衆国憲法第10改定の規定に基づき、州の管轄権限と規定されているため、この考えは連邦憲法に(規定された憲法上の権利に)は抵触しないとの判断を示している。ゲーミングそのものが特権的性格のもので、ライセンス取得者は、ライセンスを保持することで、何らかの保護の対象となる資産としての権益を保持しているわけではないという事実により、司法上の見直しを拒否することは正当化されるとしている。一方、これではあまりにも厳格すぎるとし、本来規制機関の判断に対し、チェックアンドバランスの機能をもたせるべきで、通常の産業と同様に連邦憲法上の権利を認めるべきではないのかという意見である。これにより規制機関の判断が恣意的でなかった否かを裁判所が判断できることになる(極めて特殊米国的な事情で他国ではかかることはない)。
(d) 申請者に対する背面調査情報の開示:
申請に関する聴聞会に際し、申請者ないしはその代理人たる弁護人は法の執行機関(ゲーミング・コントロール・ボード)が調査し、提出する証拠書類等を公聴会前に検証することが許されていない。これでは、反論をするにしても公平さに欠けるのではないかという指摘である。申請者の公正さを検証するのが目的ならば、当局が根拠とする情報の正確さや情報源につき詳細に反論する機会を申請者に与えてもよいではないかとする議論になる。
(e) 独立した社外役員に対する義務の簡素化:
上場企業の社外役員でも、ゲーミング企業の場合には2002年サーバンス・オックスレー法に規定された負担に加えて、ゲーミング関連所掌を根拠とし、その適格性が調査、審査の対象となってしまう。よって、社外役員も、ライセンス取得と同様の詳細な個人情報・財務情報を提示し、完璧な背面調査を受けざるをえなくなり、かなりの負担になってしまう。これでは上場企業といえども社外役員の成り手がいなくなるのではないかという議論である。
歴史的に適切であった規制の内容は、社会の成熟化や、賭博行為自体の安定化に伴い、現代社会では過剰となってしまう側面もある。時代とともに、ゲーミング賭博規制の公平性、効果、必要性はその内容や政策的意図を検証することが本来好ましいともいえる。この意味では、新しい制度を考える場合、ネバダ州の前例、経験は参考になるが、全てが適切であるとは限らない側面がある。少なくとも、成熟した市民社会においては、これら規範はかなりの部分を簡略化することができると考えるべきであろう。