米国ニュー・ジャージー州アトランテイック市は19世紀末以降、米国東海岸におけるリゾート・タウンとして著名で20世紀初頭までは大都市に近い東海岸海浜リゾートとして栄えてきたという歴史がある(主にニュー・ヨークやフィラデルフィアなど大都市からの鉄道旅客を中心に発展した)。ところが、第二次世界大戦後はモータリゼーションの進展や、飛行機の発展により遠隔地のリゾートとの競争が生じ、アトランテイック市自体の魅力が低減し、市街地はスラム化し、犯罪も頻発して、60年代以降地域の疲弊と投資退却が続いてきたのが現実でもあった。このリゾート地を再生し、再建する手法として、当時としては東部諸州には存在しなかったカジノの導入を核とした観光再生、都市再生が試みられたことになる。この考えは、70年代初期に政治課題となり、大きなロビーイング活動と州民説得のための運動が生じた。この考えを実現するためのニュー・ジャージー州憲法を改正する州民投票は1974年11月5日に実施された。この法案は①州政府がカジノ施設を所有し、運営すること、②州内部のどこにでも当該地域住民による直接投票による許諾を得て設置できることという内容であったが、60%の州民が反対、21の郡の内19が反対し、否決された。2年後の1976年11月2日に再度州民投票がなされたが、一部内容が修正され、この法案は①民間所有、民間経営のカジノ施設を前提とすること、②アトランテイック市に限り限定的に許諾し、厳格なライセンス制度により民間主体を規制することという内容であった。カジノを都市再開発のユニークなツールとして用い、アトランテイック市を再建・再生するとともに、カジノがもたらす税収を州の高齢者・身体障害者のために支出するという主張になる。ニュー・ジャージー州憲法を改定するこの州民投票は賛成57%(150万人)、反対43%(114万人)で可決された。この憲法改定を踏まえて、カジノを創設し、これを規制する州法として1977年6月に議会で議決された法律が、「ニュー・ジャージー州カジノ管理法」(1997 New Jersey Casino Control Act NJSA 5:12-1~5:12-218)になる。
この法律に基づき、ニュー・ジャージー州アトランテイック市に最初のカジノが開設されたのは1978年5月26日である。2012年レベルでは12の巨大なホテル・カジノ群を有し、統計データとしては、2010年レベル(この段階では11施設)で同市への訪問客は約2,932万人、カジノ産業の直接雇用は34,145人、同市カジノの全体総粗収益は$35.6億㌦、税支払は2.6億㌦に達する迄に発展している。
これ以前のカジノ賭博は米国ネバダ州において、あくまでも限定的な形でしか認められていなかったのが現実である。制度のあり方に関しても、必ずしも十分な情報や経験が一般的に蓄積されていたわけではない。かつネバダ州の制度は、制度としても実態経済の進展を反映して、段階的にその制度構築がなされたために、かなり複雑かつ詳細で、解りにくい法律の体系になっている。1977年のニュー・ジャージー州カジノ管理法は、いまだニューヨーク等の大都市でマフィアの存在が懸念されていた時代の産物でもあり、その制度設計に際しては組織悪を排除するために、細心の配慮がなされたと共に、限定的な形でカジノを施行することを前提に、極めて厳格な管理手法を導入し、制度としての整合性、一貫性をもった米国における模範となるカジノ法ともなった。
その後のニュー・ジャージー州におけるカジノ施設の健全な発展と成功は同州の規制や制度の有効性を立証するものともなった。同州におけるカジノ管理法は、現代カジノ規制に関する最も精緻な一つの軌範類型として、その後米国の各州において新たにカジノの制度設計をする際に参照され、その基本的考えが模倣されている。かつまた1980年代から2000年にかけて、様々な先進諸国におけるカジノの制度設計に関しても、この法制が参照され、その一部の考え方が継承されてきたというのが現代社会の実態になる。効果的な、かつ厳格な規制により、カジノから組織悪や不正を排除し、カジノ自体を健全化するができることを立証した意味においては、この州法が果たした役割は大きい。もっともニュー・ジャージー州のこの法律はあまりにも厳格で一部不要な規定が多々あったことより、1977年以降実態に合わせて、一部規定や手順の簡略化・簡素化が段階的に実現し、2011年に大幅改正された。