米国ミシガン州では1933年に競馬、1972年にロッテリーが許諾され、1980年には州内の原住民居住区での所謂先住民部族カジノが認められており、1996年時点では17のインデイアン居留地区でのカジノ施設が州内に存在した。但し、これは人口が密集した都市から遥かに離れた地点での話になる。1970年代頃より州都デトロイトにもカジノを開設すべきとする動きが存在したが、実現していない。当時デトロイトは、自動車産業のメッカでもあったが、都市から郊外に住民が移動し、都市部のスラム化が進行しており、何らかの施策をとらざるを得ない状況にもあった。デトロイトは川を挟んでカナダのウインザー市と対峙する。1994年に至り、このデトロイト市の対岸にあるウインザー市で米国からよく見える、かつ両国を挟むトンネルの至近地でもある好立地の場所にカジノが開設された。開設したのはカナダ・オンタリオ州のロッテリー・カジノ公社でもあり、明らかに制度の隙間を狙い、トンネルを挟んで5分でいけるカナダに、米国人旅客やデトロイト市民を集客し、消費させるという国境カジノの概念になる。興味深いのは公社との包括契約に基づき、投融資を実施し、施設を建設し、公社と利益分担する形で実際の運営を担ったのは米国のカジノ運営事業者でもあった。この施設は、国境を超えてデトロイト市民の人気を博し、大きな成功を収めることになる。
本来デトロイト市に落ちるべき市民の遊興に係る税金が隣国のカナダに取られたことになる。デトロイト市は自動車の町、労働者の町でもあり、かかる施設に対する需要も許容度も都市としては本来高かったのであろう。この隣国とはいえない川むこうの施設の存在により、州民のカジノに対する意識も、感情も許容度も段階的に変化してきたという事情がある。1996年に、ミシガン州の州都となるデトロイト市のみを対象とし、この都市に限定的にゲーミング・カジノを設置することを認める内容となる「プロポーザルE」が州民直接投票の対象となった。この提案は、賛成51.5%、反対48.5%で可決され、これにより、デトロイト市内に3ヶ所のカジノを開設することが認められた。この投票結果に基づき、州憲法を修正し、新たな立法措置を図る作業が加速化し、1997年にカジノ賭博を州内において施行することを許諾する「ミシガン州ゲーミング管理・歳入法(Michigan Gaming Control & Revenue Act,PA69)」が制定された。
尚、デトロイト市におけるカジノで極めて興味深いのは、法律としては、飽くまでもミシガン州にカジノを実施する制度的枠組みと規制と監視の枠組みを定義する内容で、地点は州都デトロイトと規定されてはいたが、州法は、規制と監視の枠組みや、制度の在り方の詳細を規定するのみで、如何なる施設をどのように、また如何に設置するかは、州政府ではなく、現実に当該施設が設置される地方政府であるデトロイト市にその全てを委ねたことにある(即ち、制度の制定と現実の地点選定や事業者選定の在り方を峻別し、後者を地方政府に委ねたことになる)。
上記法律の制定に伴い、またこれと並行して、デトロイト市の構想・計画が練られた。デトロイト市は、三つのカジノを梃に、荒廃した河岸地区の再開発を狙い、スラム化した市街地を再開発することにより、市民を中心市街地へ戻し、賑わいを創出することを考えた。関連する土地を取得させ、インフラを整備し、公共施設、ホテル建設等の整備と実現をカジノ開発の必須の要素として含む考えが市にとっての基本計画となった。この計画に基づき、上記法制度構築と平行的に、デトロイト市による競争公募が実施され、最終的に投資開発運営事業者が三社選定され、市と事業者との間で開発運営協定が締結された(この契約詳細は公開されている)。この意味では、1)地点の選定と事業者選定、地域をどう発展させるかとの絡みは全て地方政府(ミシガン市)に委ね、2)州政府は別途商業賭博の制度的枠組みを構築し、市が選定しうる事業者の事業ライセンス申請を評価、判断し、許諾するという二重の、平行的な手順をとったことになる。市が事業者を選定しても、州政府がライセンス許諾を付与しなければ、市の選定そのものが無効になる。また、例え州政府がライセンスを付与しても、市が選定することが条件となるため、両方の条件を満たした主体のみが、許諾運営事業者になれたことになる(現実にとられた手順は、ミシガン市による事業者選定が先行し、選定された事業者が、契約締結後ライセンス申請をしたというものであった。選定された事業者は他地域でも経験のある事業者であり、確実にライセンスは付与されるという見込みがあったという背景もある)。
このような①地域再開発に絡んだ投資事業誘致としてカジノを核とする遊興施設を考えること、②競争公募による提案により事業者を選定すること、③事業者へのライセンス付与はあくまでも地域により事業者が選定された後とすること等の考えは、その後段階的に他地域においても一般的な手法として定着していった。