現実に我が国には無い制度を想定し、そのあるべき姿をイメージすることは、官僚機構にとり、既存の発想を超えざるを得ないアプローチになるかもしれない。今ある制度から類推して、その範囲内で類似的に考えることが,官僚的な発想でもあり、これならば機械的に論理構成を考えることができるし、説明も簡単になる。但し、これでは、目的と手段を取り違えているに等しく、何のためにカジノ制度を設けるのかわからなくなってしまう。制度創出の最大の難関は、あるべき姿をイメージしつつも、刑法上の違法性をどういう理屈で阻却することができるかを工夫して考えることにある。違法性阻却を担保する最も単純かつ安易な考え方は、過去の事例を踏襲することであり、①目的、収益の使途につき公共性・公益性を担保し、公的部門が収益を独占すること、②開設・運営主体に対する厳格な規制と開設・運営手法が適切に行われることを担保することが単純なその解決策になる。だからこそ、公的部門自身が施行者としてこれを担うべきという単純な発想に繋がることになる。法理としては、確かに理解できるが、これはあまりにも単純化しすぎている。公的部門自らがリスクを担い、国民に対し積極的に賭博行為を自らが施行者となり、推奨する姿は、到底想定できにくいし、本来公的部門がなすべき役割、業務とはいえない。また、これではどこかで論理矛盾をきたし、公的部門としての説明責任を果たせなくなる可能性が高い(既存の公営賭博の場合は、競技を主催し、投票券を販売してはいるが、賭け事自体は顧客同士の賭けであって、公的部門が自らこれに参加しているわけではない)。公的部門が担うという考えは、民に委ねることの問題を一切避け、とにかくカジノを作りさえすればよいという単純論理からの発想であることが多い。但し、これでは、国際観光や地域振興という政策目的もおざなりになってしまうのであろうし、民による巨額な投資負担もありえない。また、経済効果も極めて限定的なものにならざるを得なくなる。
発想を根本から変え、カジノの施行者を民間事業者とし、民による施行によっても、一貫性、整合性のある政策目的を達成でき、かつ、公的部門にも一定収益が分与され、公共性・公益性のある使途に当該収益が支弁されることを全ての前提にすべきであろう。何となれば、カジノの考えは、従来の公営賭博の制度的考えと全く異なる発想を取らなければ、制度上の制約をブレークスルーすることはできにくいからである。これは、即ち下記諸点等になる。
① 施行がもたらす収益は、国、地方公共団体、関連する民間事業者いずれもが、Win-Winの形でメリットを享受できることが、法の前提となるべき:
民間事業者がリスクを取り、投資・運営を担い、投資コストを回収するために一定の収益を当該施行から期待し、これを実現することは、全体の公益目的とは矛盾しない。巨大な投資を伴う施設整備を担い、集客し、キャッシュフローを生み出す枠組みを創り、その運営を担うことは、大きなリスクもあると共に、これを実現すること自体にも価値がある。民間事業者が収受する収益はその負担(投資リスクとその費用)に見合う受益と考えるべきで非難されるべきものではない。投資を担保する十分な減価償却を実施するキャッシュフローや正当な対価があってしかるべきであろう。例えその対象が賭博施設であっても、投資に対する対価は正当なものである。
但し、賭博行為が通常の商行為の基準を超える超過利潤をもたらすと想定される為に、税や納付金等の仕組みにより、当該利潤の一部を公的部門が何らかの形で徴収し、バランスを図ることこそが公益に資する考え方であるともいえる。公的部門が収益を独占することのみが公益ではなく、施設が実現し、これが健全かつ安全に運営されることにより、様々な経済効果をもたらし、多様な利害関係者が各々の便益を享受できるようになることこそが公益であろう。
②施行のメリットは分担しつつも、施行のリスクは公的部門ではなく、専ら民間事業者が担い、公共性、公益性、健全性を担保する仕組みを法の前提とすべき:
公的部門が財政負担により施設整備を担ったり、賭博行為のリスクを負担し、直接その施行を担ったりすることは、制度の前提としては好ましくない。国や公的部門の役割は、枠組みやルールを作り、一定の枠組みの中で健全な施行がなされることを担保することにあり、自らが施設整備を担い、施行を担うことではない。この意味では、カジノに関する施設整備と運営行為、及びこれに伴う施行のリスクはあくまでも民間主体が担うべきで、この前提に基づき、厳格な規制により公共性、公益性、健全性を担保する仕組みを考慮すべきである。
尚、カジノは単純に施設を作りさえすれば、何処でも必ず成功するというものではない。適切な地点に、適切な規模の施設と適切なサービスがあり、初めて集客と消費が実現する。官業で単純にこれが実現できる程、甘くはない。