賭博収益に伴う公的部門の取り分(税率ないしは納付金率)をどう定めるかに関しては、何らかの所与の条件や前提があるわけではない。市場性、施設の規模・収益力、施設の総数、期待税収額等から課税対象となる主体の負担能力・余力を推定し、許容可能な税率ないしは控除率を設定することになる。単純でないのは、選定される地域の戦略的地位(交通アクセスの利便性、後背地における人口集積)、市場性、施設規模、制度の在り方等によって、事業性も、売上も、公的部門にとっての取り分も大きく変わってしまうことにある。かつ、この判断は政治的意思によっても大きく左右されてしまう。一定の市場独占が確保され、高い市場性が想定される場合には、税率・控除率を高く設定しても問題ないが、市場性が無いのにも拘らず、高い税率・控除率を設定する場合には、大きな投資をすれば、減価償却負担も大きくなり、キャッシュフローが回らなくなる。また、市場性が高い場合には、例え税率が低くとも、より多くの税収を得られるということはある。民間施行を軸に考える場合、公的部門の取り分の基本的考え次第で、事業投資家の興味は大きく分かれてしまう。この様に、一定の市場環境のもとでは、税率あるいは納付金等の在り方は、投資家の行動を変えてしまう効果をもたらすことになる。
賭博に伴う税ないしは交付金の徴収は、施行者にとってのネットの売上(総粗収益)に課されるものである以上、一般市民にとり直接的な負担感の無い税ないしは交付金になり、為政者にとり、財源不足を賄う格好のツールとなる。一方、市場において、施行主体にとり、許容できる合理的なレベルの税率・納付率でない限り、制度としてはうまく機能しない。では如何なる税率・納付率が適切となるかに関しては、市場における許容度と為政者の政策的意思次第ともなり、個別の市場毎に状況は異なってしまう。留意すべきは、賭博税収は如何なる税率であっても、基本的にはマクロ経済の変動を受けやすく、経済の好況・不況に大きく影響される属性を持っていることにある。不況の場合には、遊興支出は当然減少し、税収も減少する。かかる事情により、一般的には可変性(Vulnerability)の高い財源になり、特定の財政支出にその使途を固定(ロックイン)してしまうと、税収が減少する局面では、必須の歳出項目に金が回らないという事情が生じてしまうリスクもありうる。
ではこの税収ないしは納付される資金の使途は、如何なる政策目的のために用いられるべきなのであろうか。国の場合、何らの指定もなければ、当然のごとく国庫に納入され、一般会計における支出の対象になってしまう。一方、国民にとり、負担感の無い財源は、為政者にとっては理想的な財源にもなり、通常の予算費目では充分に行き届かない政策的費目等に充当することを政治家は優先してしまうことが多い。また、このために法律上の政策目的とリンケージをはり、法目的そのものの中にかかる考え方を導入することを考慮することが通例である。勿論かかる考え方も一つのアプローチなのだろうが、果たしてかかる考えが、国民の支持と信頼を取得するに足りるかは、状況と内容次第であろう。
税収ないしは、交付金・納付金の使途をどうするかを考える場合には、
① 公平性、透明性を具備した考え、用途であること、
② できうる限り全ての国民にその一部でも分配され、その便益が国民に広く行きわたることが好ましいこと、
③ 複雑な公益主体の介在や、配分の為だけの特殊法人を設けることや既存の特殊法人や公益主体を設けることを避けること(官僚の裁量により収益の配分先が決まるような仕組みは、天下りや癒着を導きやすく、かかる考えは時代に逆行する)、
④ 解りやすい考え方であること、また確実に国民の支持と信頼を得られる考え方であること、
等を前提とする必要がある。
尚、国と地方公共団体間で収益をどう分担するのかという課題もある。地方公共団体の場合には、不平等感や不平が生じてくることを避けるために、何らかの形で、施行する自治体以外の自治体にも恩典の配分があった方が好ましいといえる。あるいは、税収・納付金からもたらされる資金をより公平に、かつ透明的な手法で役に立たせるためには、当初より全ての収益を国民の全員が納得する配分先(例えば国民の基礎年金勘定)を使途とする考え方等もある。細かく分担したり、配分したりするよりは、本来遊びから得られる変動性の高い税収であるならば、誰もが納得する年金基礎勘定への充当は、反対をもたらさない。また誰もが反対できにくい支出使途を考えることにより、立法過程での摩擦を少しでも避けることができる。民主党を中心とした超党派議員連盟の時代(2010~12年)には、国にとっての収益を年金会計へ充当するという考えは与野議員の賛同を得たが、その後の議論の進展は、混迷化しており、現時点において何等かの合意があるわけではない。優れて立法政策上の判断でもあるのだが、使途の判断を後回しにするという考えが適切といえるか否かに関しては大きな懸念が残る。