賭博行為を違法とするか否か、社会的にこれを認めるか否かは、一国の政策によっても異なり、何らかのあるべき共通の認知された規範があるわけではない。賭博行為が公共秩序を壊すのか、否か、合法か違法かという判断は、その国の歴史や文化、宗教観、制度や国民の倫理観によっても異なるのが現実になる。ある国では合法で認められていても、隣の国では違法ということもある。国どころか、米国では州毎に賭博制度は違法であったり、合法であったりする。かつ同じ国、地域でも、時代の変遷とともに、為政者の考え方次第で、合法となったり、違法となったり、制度自体も変わってきたという歴史的事実もある。グローバリゼーションとは制度や社会の仕組みが世界レベルで均一化する趨勢を意味するのだが、賭博法制は必ずしもこの動きとは一致しない考え方が取られている。国単位で、制度の状況が異なるのは、一国の国民を保護し、社会の秩序を保持するのはあくまでもその国の政府の専権になると判断されているからである。よって、世界貿易機関(WTO)による自由貿易協定等においても、一国の公序良俗に関する制度ともなる賭博に関する政策的判断は、例外的措置として、国毎の個別規制が認められ、各国毎にバラバラの制度が存在する。賭博行為は自由な取引領域には属さず、国毎の規制の対象となるわけである。もっとも自国では違法だが、他国へ行けば合法となる状況は、人々の交流や観光が盛んになるにつれ、違法とする国において一般的に「罪」の意識を軽くしてしまう効果をもたらしている。また、これは国民の意識の中において、合法と違法との境目を限りなく曖昧にしてしまう効果をも与えている。他国では全く問題ないのに、自国では罪になるという理屈を国民に対し、解りやすく説明することは左程単純ではないからである。また、インターネットを利用した賭博行為の提供は更に事態を複雑化している。一国の管轄権が及ばないサイバー世界で規制を設け、国民を保護することは単純にはできないからである。
なぜ、かかる事象が生じるのであろうか。結局これは一国の国民が持つ社会的価値観の差異が各々の国の制度に反映されているのであろう。賭博行為は所詮、成人となる個人の責任による個人の営みと考える価値観の国もあれば、その存在自体が社会にとって有害、危害をもたらしうる罪とみなすという価値観の国もある。宗教意識の強い国々、たとえばイスラム教の国々では賭博行為は全く認められていない(一部外国人のみが参加できる施設等があるが、外貨獲得の手段とみなされているだけである)。この価値観の差異が民意を支え、一国の制度を形成しているともいえる。様々な考え方が存在するのだが、現代社会における先進諸国の支配的な考えは、賭博行為は適切に管理されれば、悪でも犯罪でもなく、否定的な効果を縮減しつつ、一定の公共目的を達成することにも資するというものであろう。この場合の公共目的とは、例えば、課税行為による税収の確保であったり、地域振興や観光客誘致に伴う経済の活性化と経済的便益の確保、あるいは雇用増であったりする。事実、様々な国において、様々な公共目的の下に、かかる賭博行為が認められているのが世界の現実である。
米国や豪州の様な連邦制の国の地方政府では、政府の財源そのものが限られる場合があり、政府の一般財源の中における賭博関連収益(ロッテリー、競馬、カジノ等)が無視できない程大きな割合を占めてしまっている国や地方政府も存在する。こうなると、財源を維持する為に、賭博遊興行為を政策的に推進せざるを得なくなったり、財政上の理由が優先され、賭博政策自体が歪んだりするリスクも十分ある。庶民の懐からではなく、来訪者に遊ばせて施行者の売り上げ(即ち顧客の損失総額)に課税するという手法は、国民にとり負担感が無く、反対も限定される税源である以上、為政者にとっては魅力的な政策的ツールになる。よって不況や、経済の停滞期には、財源確保の為に新たに賭博行為を認めてこれを税源としたり、既存の許諾された賭博の税率を上げ、税収減に対応したりする等の施策が取られることが多い(特に米国では州憲法により財政均衡主義が規定されている事情があるために、不況等により税収減となる時代には、賭博関連税率を上げたり、新たな賭博種を導入したりするという政治的衝動が働く場合が多い。最近でもリーマンショック以降の不況期において、様々な賭博種を制度として認める動きが主に東部、中西部諸州で活発化し、一つのブームとなってしまった)。
我が国における公営賭博も戦後、国や地方自治体が財政的に疲弊した時に、地方自治体にとっての新たな財源を設けるために、「当面の間」として作られた制度が、永続的になったものでもあった(もっとも行政的には、「当面の間」とは時間の長短を前提としないことが通例となるため、おかしな考え方ではない)。地方財政健全化法の施行により、地方公共団体による財政の逼迫が、大きな政治的・社会的問題になりつつある現代社会の状況は、どうやら半世紀前の状況と類似的な側面がある。税収確保や地域振興のために、賭博行為を考えることに対する倫理的反発はあるが、一つの有効な政策的選択肢であることは間違いない。新しいゲーミング賭博の法制化を考える背景にはかかる時代的要請もあることになる。