賭博行為の施行に民間主体を利活用することは、極めて有効な考え方でもある。但し、民間主体が自由に、かつ何の規制もなくかかる賭博行為に従事できると考えるのはあまりにも単純化しすぎており、非現実的であろう。かかる業に従事することを欲する個人・法人の民間主体は、すべからく規制当局に申請することが要求され、その適格性と要件を厳密に精査されることが通例である。これら申請者は、一定の要件を満たしている限りにおいて、規制機関による一方的な判断により取消可能な免許(ライセンス)を付与され、この免許の要件が満たされている限りにおいて、一定の条件、規制の下においてゲーミング・カジノ施設を設置し、運営することができる。満たされていないと規制機関が判断すれば免許は直ちに一方的に剥奪される。この基本的な考え方は、欧米諸国ではほぼ共通的な規範となっている。
因みに慣習法の国では、この免許は第三者に譲渡したり、担保の対象としたりすることはできず、あくまでも取り消し可能な特権(Revocable Pliviledge)であり、民法上の通常の権利(RightないしはEntitlement)ではないとされる(権利であるならば、一般法上の保護があり、それが公的主体を含む第三者から侵害を受けず、例え侵害を受けても法的手段を取れるが、特権とはこれを付与する公的主体の一方的な判断により付与され、一般法上の保護は無い点が異なる。尚、これは慣習法の国での話で、わが国にはかかる法的概念は無い)。かつまた、一定期間のみ有効で、有効期限内に再度申請し、その有効性を規制機関が再確認・認証することが要求され、この時点でも、規制機関が不適と判断した場合、いつでもこの免許(ライセンス)は剥奪されたり、更新されなかったりする可能性がある(かなり恣意的な一方的判断の側面もあり、事実2007年に米国のニュー・ジャージー州では、何と経営者としての倫理的な不適格性~経営者として好ましくない過去の行動~を根拠として、事業者のライセンスが規制当局により一方的にはく奪された事例がある)。もちろん上記は慣習法の国における議論でもあり、わが国の様に行政法が独自に発達している国では、行政法上の認可が行政府による任意の判断で取り消されることと類似的と考えればよいのであろう。我が国では、諸外国のゲーミング法制の様に、前提や条件、要件を厳格にし、免許(ライセンス)を与えるという制度的事例は無く、類似的な法体系はないといってもよい。このゲーミングに関わるライセンス(免許)の取得は、企業としての事業者にも、また、その構成員(経営者、主要従業員、職員)にも一種の労働許可証が付与される条件として要求され、かつこの事業者に機材、機械、物品、サービスを提供する関連業者にも要求される。
では、免許(ライセンス)を取得できる要件とは如何なる考えになるのであろうか?当該主体が清廉潔癖であること(犯罪歴がないことはもとより、過去も現在も悪、組織悪と直接的、間接的に何らかのかかわり合いがないこと、そのリスクが無いこと)、正直であること(虚偽の申告はないこと、社会的名声を保持していること)、健全な財政基盤を保持していること(不正な資金がカジノの施設整備や運営に関与していないこと、不正な資金を個人として取得していないこと)などになり、この判断基準は法人でも、個人でも同様である。通常はかかる判断基準は法律ないしは規則等により、適格性要件として規定されることになる。興味深いのは、客観的な判断基準とともに、規制当局の評価による主観的な判断要素もライセンス付与の要件になることであろうか。
実際に必要となる手順とは、申請者が詳細な申請書を規制当局に提出し、申請者の費用負担により、規制当局が背面調査を実施し、これが正しい申告内容となっているか否か、適切か否かを詳細にチェック、審査し、判断を下すという手続きを踏む。尚、この間に公聴会などの手順が入る。とてつもない費用、時間、手間を取られるが、まず入り口で不審者や悪に染まりやすい主体を一切入れさせないこと、そのためにはハードルを高く設定することが制度の趣旨になる。尚、例えライセンスが付与されても、継続的に監視の体制をとり、要件を満たさなくなった場合、直ちにライセンスをはく奪され、以後二度とこの業界に足を踏み込むことはできなくなる。日本人的感覚からすれば、果たしてそこまで本当に厳格なチェックが必要であろうかということに尽きる。免許(ライセンス)とか特権とかいう考えは、一定の条件のもとにおいて特例的に認められるという考えでもあり、その権利の存在を抗弁できない場合がある。予め定めた基準に達していないと為政者が一方的に判断した場合、当然これは剥奪されることになる。これは為政者の意思により、この基準に関するハードルを意図的に高くしているという構図であるともいえる。