18世紀から19世期にかけて、主要欧州諸国では、産業革命の勃興により新興ブルジョアジーが社会的に台頭した。いわゆる富裕階層の数が増大し、近代社会が形成され、この結果として、余暇活動が活性化する。この時代の特色は①人々の移動の手段の飛躍的発展(即ち、旅行や交流の活性化、人々の移動と交流がより効率的になった)と共に、②生産性向上に伴う所得の増大と余暇時間の増大(即ち、お金と時間が余るようになった)でもあった。今まで一部の特権階級だけのものであった、レジャー(余暇)や遊びが段階的に社会の富裕層全般に広まり、富が社会に拡大されたことなる。これに伴い、余暇活動が徐々に、社会の各層に広まっていった。バカンスという言葉はフランス語だが、この頃から一般化した言葉である。今に残るフランスの地中海沿岸のニースやカンヌ、モナコ、あるいは北海沿岸のドービル等の高級リゾート地や著名な観光地は、19世紀末から20世紀初頭にかけて段階的に形成されたもので、鉄道や車等の移動手段の飛躍的な発展と整備、効率化が大きな役割を果たした。これに伴い富裕層による余暇活動が、飛躍的に発展し、余暇を過ごすという活動が段階的に社会各層に拡大し、発展していった。著名な観光地は、一般大衆も楽しめる余暇地域、余暇リゾートへと段階的に変わっていったわけである。この中にカジノも位置づけられる。
最も欧州では、カジノは一部リゾート地において、富裕階級の為に、クラブ的雰囲気の中で限定された形で運営されることが歴史的なあり方でもあった。第二次世界大戦後の大衆社会、消費社会の登場によってもこの大きな趨勢の基本は変わっておらず、現在においてもこの伝統が踏襲されている。また18世紀から20世紀にいたるまでの間は他の諸外国と同様に、欧州においても時の為政者の意思により、ゲーミング賭博は禁止されたり、合法化されたりした経緯がある。この意味では、歴史的にはゲーミング賭博は順調な発展を遂げてきたわけではなく、制度としても一貫性が欠如したものであった。あくまでも地域限定的な遊興の一手段として、著名な観光地のみに点在し、第二次世界大戦後になって、これが段階的に発展し、庶民の間にも広まっていったという経緯になる。尚、第二次世界大戦後にあっても、社会民主党政権が支配した西欧の国々では賭博行為は受け入れられるのにかなりの時間を必要とした。
一方、新大陸米国では、18世紀から19世紀にかけて、西部開拓に伴い、一般庶民の娯楽として、ゲーミング賭博が発展していった。ゲーミング・カジノがより一般化して、単なる庶民の娯楽の一つ、遊興の手段として認知され、普及することになったのは第二次世界大戦後の話になる。西部開拓の時代は、都市や開拓地における酒場における組織化されたとはいえない小規模賭博の時代でもあった。かかる営みから組織的な遊興施設へと転換したのは19世紀、一部大都市に存在したサロンと呼ばれる施設からである。これは、旅行者が交流し、酒を飲み、ギャンブルを楽しめる今でいうカジノに限りなく近い機能を提供した場所になる。一方、19世紀末からの社会改革派の政治運動により、1930年頃までは、米国は各州どこでも実質的に賭博禁止の時代でもあった。この動きが変わるのは、1931年で、ようやくネバダ州のみで制度的に商業賭博としてのカジノ施設が認められることになる。これが現代社会におけるカジノの始まりである。1930年代から1960年代ごろまでのネバダ州のカジノ施設は中小規模施設、過小資本が過半でもあり、この経営形態に着目し、組織的にカジノを支配してきたのが米国の犯罪組織マフィアでもあった。これを断ち切ったのは1960年代以降の連邦政府並びにネバダ州政府による組織悪を追放するという意思とこれを実現するための規制機関の設立、それに伴う様々な厳格な制度や規則の導入による組織的かつ段階的なマフィア撲滅のための政策になる。1970年代末におけるニュー・ジャージー州によるカジノ許諾の枠組みは、ネバダ州に次ぐ、米国で2番目のカジノ制度となったが、マフィア組織がまだニューヨークに存在した段階での制度化という事情もあり、組織悪を排除するための徹底的に厳格な制度を一つのモデルとして提供することになった。この制度モデルは、その有効性と、悪の排除という明確な効果が認識され、その後カジノの制度化を試みた様々な米国の諸州並びに、諸外国政府によりその基本的考えが模倣され、現在に至っている。
ゲーミング・カジノの一般化、大衆化の歴史は、ゲーミング・カジノそのものが健全化され、安全化された証しでもあり、これを顧客である庶民自身が認識し、支持した結果でもあるのだろう。