欧州で生まれたカジノは、第二次世界大戦後、米国において、1960年代以降、規制や監視に関する制度の精緻化が計られ、これが段階的に一つの慣行として定着していった。かかる規制や監視の考え方が有効であることが社会的に受け入れられたことが、発展の契機になったといえる。この結果、様々な米国の地域で類似的な制度が構築され、規制や監視の手法が一般化し、かつこの同じ考えが、世界中に広まったことになる。米国において1970年代から1990年代にかけて様々な州でなされた経験・実践は、一つのモデルとして、その後米国から欧州、あるいはその他の国々にドミノの様に広がっていった。一方、戦後欧州における福祉国家や社会民主主義政党時代の欧州諸国家では、伝統的なカジノ施設は継続して存在したのだが、カジノ賭博自体は必ずしも好ましいものとはみなされていなかったという経緯がある。この意味では欧州でも、制度的にゲーミング・カジノが定着するまでには幾多の経緯と時間を要したといってもよい。カジノ施設は、市民社会の成熟化と供に、段階的に様々な国民に受け入れられるようになっていくのだが、経済が発展し、国民が豊かになり、初めて社会的に認知されていったという側面が強い。
第二次世界大戦後の欧州では、カジノ賭博は、曖昧な制度のまま戦前より伝統的に存在していた国があったと共に、制度はないが、事実行為として小規模のゲーミング賭博施設が存在していた国など様々な態様があった。欧州におけるEU統合化の動きにも拘わらず、商業的賭博は一国の社会秩序に関するもので、その国の歴史、文化、制度により事情が異なることより、統一化の対象にはならなかった。この結果、制度も慣行も各国毎となり、統合欧州では、サービスや貿易の域内障壁撤廃の対象とはなっていない。もっとも1980年代から90年代にかけて各国毎に、①既存の制度をより合理化、精緻化したり、近代化を計ったりした国(フランス、イギリス、オーストリア)、②制度はなかったが現実に存在していたもの認知し、制度化を図った国(ベルギー)、②新たな制度的措置を図り、合法化した国(オランダ、北欧、スイス等)などが存在し、米国での実践や、世界の動向を踏まえつつ、各国毎に規制当局が設置され、また、各国毎に個別の制度や規制のシステムができ、現在に至っている。
米大陸では、米国の動きは、当然隣国カナダにも伝わるととともに、カナダにおいても類似的な制度ができた。カナダでは、州政府の関与がより強い形でのゲーミング・カジノの施行が州毎になされている。一方、80年代以降、オーストラリア、ニュージーランド等のオセアニア諸国や南アフリカなどにおいても、観光振興、雇用増、税収増を目的に、断続的に米国と類似的なゲーミング賭博法制度が構築され、これに基づき、カジノを核とした複合的なリゾート施設が設立されていった。その他、この動きは、80年代以降の世界規模の資金、人、情報の移動の活性化、交流の拡大がもたらした世界的な旅行ブームにより、カリブ海諸国、アジア諸国などにも継続的に伝播していくことになる。2000年代以降は、(マカオ・シンガポール等を中心とした)アジア市場の急速な発展が世界のゲーミング・カジノ市場を強力に牽引することになり、時間の問題でアジア市場は北米大陸の市場規模を超えることになると想定されている。
制度の在り方は、ゲーミング・カジノに関する一国における施行数の多寡や施設規模などによっても異なるが、一般的に、
① 管理手法や規制の在り方の基本的考えには共通した部分が多いこと(悪や不正、組織暴力を防ぐ仕組みはどこでも共通的な側面が多く、大きな差異があるわけではない。勿論その国の状況次第では規制の内容が厳格な国とそうではない国がある)、
② 上記に伴い、カジノの運営や組織、これを管理したり、監視したりする手法も一般化、共通化、画一化が進んでいること
がいえる。一定の標準が世界的に認知され、考えや手法の共通化が進んでいるということであろう。
これは、顧客自体がグローバル化し、自由に移動し、交流しながら遊興を楽しめる時代が来たことにも関係している。世界規模で観光旅客が移動し、交流し、地域を超える顧客が増大しているわけで、かかる環境下では、ゲーミング・カジノのあり方も国毎の若干の変容はあるが、一定の世界的な標準に収斂しつつあるといえる。ゲームの種類や遊び方は既に共通化、グローバル化しているのだが、これとともに、規制や制度の在り方もグローバル化、共通化しつつある側面があるといえる。