技術の革新は、賭博提供の在り方のみならず、伝統的な用具や器具を用いながらもゲームそのものを知的に進化、改良、発展させている。この結果、様々な新しい遊び方のルールや新しいゲームを世の中に生み出している。面白いのは単純に射幸心を煽る類のゲームではなく、ゲームの遊び方に、僥倖のみならず、スキルや駆け引き、戦略の要素を取り入れたりする新しいゲーム種が時として爆発的な人気をもたらすことがある。例えば20世紀後半になってからルールが精緻化されたポーカーの一種である「テキサス・ホールデム・ポーカー」はカジノ施設が主催する地域や世界レベルでのポーカー・トーナメントやサイバー世界で提供されるインターネット・ポーカーが爆発的な人気を呼び起こし、世界的なブームを引き起こしている。因みにポーカーとはハウスと顧客が対峙するゲームではなく、顧客同士でのゲームになる。トーナメントとは、顧客による参加諸費用をプール化し、主催者による収益、諸経費、税金を控除した金額を賞金とし、全ての参加顧客に同額のチップを与え、チップがなくなった人は敗退、最後まで残る人が全てのチップ(賞金)を総取り獲得し、勝者となるというゲームの在り方である。
理論的には顧客同士が戦っている以上、パリ・ミュチュエル賭博の変形と判断することが正しいのだが、有識者の中には、これは賭博ではなくスキル(技量)のゲームとする意見もあるようだ(現実に米国のさる州では、ポーカー・ゲームはスキルのゲームで賭博とはいえないとして、その合法性を法廷で争ったという事案も存在する。諸外国でもこの問題は法廷訴訟として提起されたりしているが、2012年8月にはニューヨーク連邦東区裁判所の判事がテクサス・ホールデム・ポーカーは技量のゲームであり、1970年連邦「違法賭博業法」(Illegal Gambling Business Act)に規定された賭博とはいえない旨の判決をだしている。但し、これは僥倖であることが賭博たることの一つの要件となる制度の国での議論になる)。この仕組みは参加費が高く、参加者が多い場合、勝者にとっての賞金は天文学的になる。例えば数年前の世界大会では、参加費1万㌦、8000人が参加し、賞金は何と1250万㌦の高額に達した。世界最高額のゲームにおける賭け金賞金になる。想定される最後の勝者が一人である以上、賞金が巨額になるのは当たり前であろう。このゲームは、カードを隠したままでプレーするドロー・ポーカーではなく、表にして場におき、誰もが共有して使用できる共通カードと自分が持つ見せないカード手札の組み合わせで、①運、②技量(スキル)、③確率、④駆け引き、⑤戦略を競いあうというゲームになり、ゲームのスリルやスポーツ感覚で競技に顧客自らが参加できるという面白い展開のゲームでもある。
米国や欧州では手のうちを開示するテレビ中継も存在し、これはまた見ても面白く、人気が高い。単純な賭博行為よりも人気が高いのは、①当初は同じレベルから出発し、勝ち抜き戦という極めてゲーム性の強いものであること、②賞金は極めて高くなること、③運のみならず、やはりスキルや戦略的な駆け引きが勝因となることが多く、一定の実力があれば、勝てるチャンスは十分にあると考えられることなのであろうか。この様なトーナメントとは、ハウスが主催する一種の顧客誘致のためのイベント的な性格のものになる。ハウス自身のトーナメント自体がもたらす収益はたいしたレベルではなく、これは顧客の勝分の方がはるかに大きい。但し、顧客を集客することの効果や宣伝効果、その他の顧客支出がもたらす経済効果の方が重要なのであろう。
さて、制度上、また規制上、かかるトーナメントや新しいゲーム、新しいルールによるゲーム等をどう扱うべきであろうか。必ずしも規制の対象や明確な制度として予め制定されているということではなく、規制当局の定める規則に従い、個別のゲーム、関連するルール等が個別の認証の対象となることが通例となる(例えばチップは上記トーナメント等では特殊な金額の記載が無いチップを用いる)。かかるイベントやトーナメント、また新しいゲームも、顧客にとり公正で、公平である限りにおいて、これらを否定し、規制する必要もないわけで、個別のゲーム毎に柔軟にこれらを認めていくという方向が適切な施策方針となるべきなのであろう。
尚、上記で述べたポーカー・トーナメントでは、不正やいかさまはまずあり得ないオープンなゲームになっている。この意味では金銭を賭す賭博というよりも、参加費が高いスキルのゲームにより近い構図でもあるといえる。但し、参加費の徴収の在り方は、その内訳を賞金(Rake)と参加費(Entry)として徴収、後者は主催費用となり、前者をプール化し、全て勝者が独り占めする形は、パリ・ミュチュエル賭博に近い。参加者がスキルで競いあい、プール化した賞金を取り合う(競いあう)ことは賭博といえるのかという議論は常にある(但しわが国では、ステークとなる資金が存在し、それが巨額になることという事実のみで賭博とみなされる可能性が高い。スキルか僥倖かではなく、ステークとなる資金が大きいこと自体が問題とされるのであろう)。