現代社会におけるゲーミング・カジノに関する政策の在り方は、過去から現在に至るまでの時代の流れの中で、大きく変化してきたのがその実態である。例えば19世紀後半から20世紀初頭の米国では、社会改革派の影響を受け、殆どの州において、賭博行為は法律により禁止されていた。専ら、宗教的な倫理観や原理主義の影響を受けたもので賭博は罪(Sin)という考えが社会的な支持を受けていたのであろう。この動きは1931年ネバダ州でカジノが合法化されることにより一部穴があくことになる。当時のネバダ州の基本的な政策とは、従来から違法となるが現実に存在した賭け事行為を、免許取得義務、納税義務を課すことにより、認知し、税収を確保しようとしたものである。賭博は罪多き産業(Sin Industry)とも言われ、所詮罪なのだから、税をかけても問題ないとする考えが背景にあったことも事実であろう。制度や政策の目的は、ゲームが健全か否か、誰がこれを担っているか否かではなく、確実に施行収益を捕捉し、ここから確実に税収を吸い上げるということでもあった。
1930年代中葉から40年代の不況と戦争・戦後を通じ、この体制は継続されたが、米国においてもネバダ州という限られた地域での、限られた営みとして例外的に施行されてきたというのが、ゲーミング・カジノの現実でもあった。この賭博行為の可能性に着目したのがニューヨークのマフィア組織であって、彼らはアメニテイーを増やし、顧客にとっての魅力を増すことに資金を注入し、段階的にこの商業的賭博の世界に浸透していった。結果、マフィアの資金源としてカジノ賭博は、戦後の一時期、重要な役割を果たすことになってしまった。最も、これにより表立って、社会的秩序が大きく乱れたわけではなく、社会的には安定し、潜在的には犯罪の資金源となりながらも、州政府自体も政策的に大きな問題とはせず、奇妙な共生が続いていたことになる。顧客もこれを問題視しなかったのは、マフィアは不正やいかさまをなくし、自らの金づるである顧客を徹底的に保護し、大切にしたという事情があるからである。
これが大きく変わったのは60年代ケネデイー政権の時代であり、犯罪組織やマフィア組織を根絶するという連邦政府施策に呼応し、1960年代末以降、ネバダ州も政策を転換したことによる。この時点から、ゲーミング賭博に関する政策の焦点は、税収確保だけではなく、税収を確保しつつも、マフィア組織をこの産業から追放し、ゲーミング産業を如何に健全化し、安全化するかに舵を移すことになった。このための政策的手法は60年代末より70年代にかけて段階的に実施され、健全化も段階的に実現していったわけである。この結果、企業、また上場企業がこの事業分野に参加することが容易になり、大手企業による積極的な事業への参入が今日に至るエンターテイメント産業としてのカジノ産業の土台を作ることになった。1978年ネバダ州の次にカジノを合法化したニュー・ジャージー州では、ネバダ州の制度や規制を踏襲しつつ、より統合的かつ厳格な制度の枠組み創出を実現することになる。当時、ニューヨークにはまだマファイアの影が残り、これらの影響を完全に断ち切るためには厳格な監視と規制の枠組みが制度として必要であったという事情がある。この制度的実践が効果を上げたことはその後のニュージャージー州アトランチック・シテイーにおける成功(企業誘致とエンターテイメントによる町の再生、健全なゲーミング賭博の実践)により明らかであろう。かかる成功体験と制度的枠組みが、以後、様々な米国の諸州や諸外国においても模倣され、現在のゲーミング・カジノ法制の枠組みができあがったといっても過言ではない。
欧州では、歴史的にゲーミング・カジノ自体が小規模で、限定された営みであったがために、潜在的に悪や組織悪がたかりやすいということは大きな政策的課題にはならなかったという経緯がある。但し、欧州においても、その一部に関しては過去、タリア・マフイアが介在したとも言われており、カジノエンターテイメントの大衆化・一般化に伴い、賭博行為の健全化・安全化が大きな政策上の課題となっていった。欧州では、この考えは戦後段階的に各国毎に志向され、米国的な規範の触発を受け、その枠組みを参考としつつ、独自の制度構築が図られ、米国と同様に健全化、安全化が実現していったことになる。