ネバダ州においても、当初から賭博行為が認められていたわけではなく、許諾と禁止の間を揺れ動いてきたのが現実である。
1861年ネバダがまだテリトリーであった時点に、最初の賭博全面禁止法が制定されている。ところが、1869年には逆に賭博行為は合法化され、ライセンス料を課して、税を支払う限り認めることとされた。1869年から1907年までは、ライセンスの手順や料金、規制の在り方は段階的に変わっていったが、規制の本質は、何処に賭博施設を設置し、如何なる時間帯に運営できるかなどにすぎず、設置されたテーブルに対しライセンス料を賦課するということが目的の制度でもあった。1907年にはライセンス料の再配分が規定され、当時流行り始めていたスロット・マシーンのライセンス料収入は州政府の一般財源へ、それ以外の料金収入は郡が取得することになった。1909年には、米国全土において賭博反対の運動が生じ、ネバダ州おいても、1910年10月1日以降、再度賭博行為の全面禁止が立法化され、違反行為は重罪とされた。もっとも1915年には一部が緩和化されている。即ち景品2$以下のスロット・マシーン、並びに社交ゲーム等の軽微な賭博行為はライセンスにより認められることになった。但し、現実的にはかかる規制にも拘らず、違法賭博が横行し、法の執行は段階的に弱くなっていった。これに伴い、州政府にとっての税収も段階的に減少していった。制度としては禁止されながらも、実態は違法行為として賭博行為が存在し、税収も入らないという状況である。
この状況は、1931年に一変する。大恐慌に対する経済対策、州内の産業振興、観光客誘致という観点から、ネバダ州において全面的に賭博行為をライセンス制により許諾する法律(「Wide Open Gaming Bill」)が実現した。当時としては、ゲーミング・カジノの合法化は、米国内でもネバダ州のみであり、この状況はそれ以降、第二次世界大戦後まで継続することになる。この制度のもとでは、ライセンス付与と料金徴収は地域の保安官の役割で、税収入の25%は州が州政府の一般財源として徴収し、残りの25%を郡が、50%を関連市町村が取得するという考えであった。ライセンス付与の判断はあくまでも地方政府である郡レベルで、税金が支払われれば、相手の資質を問うことなくライセンスが付与されていた。機械やテーブルの設置台数に応じて、自動的にライセンス料を徴収したわけである。もっとも1931年に許諾されたのちも、その後第二次世界大戦を挟んだ約16年間は、ゲーミング・カジノ産業が大きく発展したという事実はない。大きな発展を見せ始めたのはあくまでも戦後の話で、1940年代後半から50年代にかけてである。尚、1945年に、ライセンス料の基本的な概念が変更された。従来機械やテーブルの設置台数にライセンス料を課していたが、これをそのまま継承しつつも、更に、総粗収益(総賭け金から顧客勝ち分を差し引いた税、費用控除前の売上)の一定率にゲーミング税を賦課する方式に変更した(1947年から粗収益の2%を州政府が取得することになった。以後税率はその後段階的に増えている)。この税を徴収し、管理するために、新たに州政府の一機関となる行政委員会としてのネバダ州税委員会(Nevada Tax Commission)が設置された。もっとも興味深いことに地方政府(郡、市、町)によるライセンス料課税権は、そのまま既得権益として温存されており、現在に至るまで、一種の資産課税として、これら資産に地方政府が課税する考えが残っている。
ネバダ州の制度の基本は1940年代までは、あくまでも、一定の許諾を与え、税金を賦課するという考えのみに立脚したもので、違法行為として現実になされていたものを、ライセンス制により税金を課すことで認め、一定の商行為として認知するというものであった。この意味では、不正や悪、組織悪の介在などに関しては、問題視されておらず、制度としては甘かったという状況になる。だからこそ、カジノ施設はマフィアに狙われたわけである。この状況が根本的に変わるのは、1950年代以降になり、
① ラスベガスに建設ブームが起こり、カジノ産業自体が地域社会に大きな経済効果をもたらすように成熟・発展してきたこと、
② 地域住民自身がその健全性、安全性に大きなインタレストを持つようになってきたこと、
③ 一方、カジノに関わる組織悪の介在が地域社会において様々な問題を引き起こしたこと、
④ またこの後、組織犯罪を追求する連邦政府や米国全体のマフィアや組織悪 に対する反対運動が高まっていったこと
などがその背景にあった。