賭博行為自体は昔から存在したが、トランプやサイコロ、器具等を使用し、一定のルールのもとで行う賭け事が、庶民の間で広まってきたのは、欧州地域を端緒とし、15~16世期の事象である。また、為政者が、特定の施設において一定種のゲームを商業的に顧客に提供することを認可した業としてのカジノ・ビジネスは、17世紀、イタリアのベニスから始まったといわれている。当時におけるカジノとは、為政者による免許事業でもあり、免許料を徴収したり、免許を付与する継続的対価として売上げに対し課税したりすることは、為政者にとり、重要な税源ともなった。一方、かかる遊興の主要な顧客は、貴族や富裕層等の特権階級であり、これら施設は必ずしも一般大衆向けの遊興施設とは言えなかった。また、近世から現代に到る迄、欧州におけるカジノ施行は、常に社会に存在したが、為政者の考えや時代の風潮次第では、認められたり、禁止されたり、制限されたりした経緯があり、必ずしもその施行が常に、また順調に認められていたわけではない。
紆余曲折を経て、現代社会に連なる運営の仕組みとしてのカジノの基本的枠組みが一部欧州諸国において成立したのは、20世紀初頭である。ただし、これを支える規制や制度の枠組みは最初からできていたわけではなく、当初は慣行として根付き、曖昧な制度的環境の下で不安定な形で施行されていたにすぎなかった。規制や制度のあり方の骨格が構築され始めたのは第二次世界大戦後の1960~1970年代以降でしかない。制度や規制が存在する前に、特権的なカジノや類似的な賭博施設が歴史的事実として存在していたというのが一部欧州国における現実でもあり、まず事実として賭博施設が存在し、その後制度が段階的に措置されてきたというのが実態である。遊興の世界はこの様に、如何なる国でも事実が先行し、制度が後回しになるという性向が強いが、欧州におけるカジノもそうであった。第二次世界大戦後の欧州にあっても、中道派の社会民主党政権が跋扈した欧州諸国では、カジノは必ずしも肯定的な位置づけを与えられていたわけではない。
遊興施設としてのゲーミング・カジノの欧州における定着化と大衆化、あるいは施行行為自体の成熟化と産業化への動きは1980年以降の事象である。また一部の国では1990年以降、従来の制度のあり方そのものを見直したり、新たに制度を構築したりしており、規制や制度の枠組みを、より現代社会に適うものに変えている。 カジノというビジネス・モデルは欧州にて生まれたのだが、これを広く大衆にとっての娯楽施設とする制度的仕組みや規制のあり方は米国において第二次世界大戦後の市民社会の成熟化の中で発展してきた考えである。欧州においても、この米国的な考え方が段階的に取り入られることになり、1980年代以降に、欧州で制定されたり、あるいは改定されたりしたカジノの許諾ないしは施行にかかわる規制や制度は、米国おける概念の発展や経験に少なからず影響を受けている。
歴史的には欧州におけるカジノ許諾は必ずしも一般大衆に開かれたものであったわけではなく、限られた階層の限られた人々による遊興の手段でもあった。ラスベガス大学のトムソン/カボット教授はその著書の中で、『欧州のカジノは伝統的に顧客の階級を意識した事業でしかなく、一部の特権的な経済的エリートにより管理され、かつまた一部の富裕層を顧客とする限定された営みでもあり、制度的に許諾されていても、一般大衆によるアクセスが限定された存在でしかない』と看破し、一般大衆を顧客対象とし、競争をベースに利益を志向する米国的なマス・マーケットカジノ経営とは今でも全く異なることを指摘している。
かかる背景により、欧州のゲーミング・カジノ施設は伝統的に、そして今でもその規模は小さく、かつクラブ的、排他的な雰囲気がある。確かに過去、欧州におけるカジノ施行は限られた立地における限られた施行という側面が強かった事も事実ではある。かかる傾向は現代に到る迄継続している側面もあるが、欧州においても段階的に、かつ確実にゲーミング・カジノが大衆化されてきた。更には、サイバー市場における賭博行為の許諾は、一挙に市場を拡大化し、賭博行為を大衆化したともいえる状況をもたらしている。各国毎に事情は異なるが、法的に許諾された商業賭博のあり方は社会の発展や、時代の変遷に伴い、より近代化、現代化していると共に、確実に施行を担う企業や産業としての成熟化をもたらした。これと共に、賭博を巡る制度自体も段階的に変わりつつあることが欧州の現実である。