刑法第35条(正当行為)は、別途法律で定める場合には、刑法の罰則規定を適用しない旨を定めている(これを「(刑法上の)違法性を阻却する」という)。勿論、刑法上の罰則行為の違法性を阻却するということは、極めて例外的な法律行為になり、単純な形で実現できるものではない。規制緩和ではなく、別途新たな立法措置により、初めて違法性を阻却できることになり、何をもって正当行為とするかは、立法政策上の判断事項になる。ところで、刑法が一定の行為を犯罪と規定するのは法が守るべき利益が存在するためで、これを法益というが、賭博罪の場合は社会的利益と言われている。この場合の社会的利益とは、社会の公序良俗の保持ということになる。放置した場合、賭博行為は公序良俗を乱すから犯罪とするという考え方なのだが、この背景には、賭博行為は本来好ましくないという倫理観がある。昭和25年の最高裁判例は賭博行為を処罰する根拠として、「国民をして怠惰浪費の弊風を生ぜしめ、健康で文化的な社会の基礎を成す勤労の美風を害し、暴行、脅迫、殺傷、強窃盗その他の副次的犯罪を誘発し又は国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらある」(最大判昭和25年11月22日刑集4巻11号2380頁)と指摘した。「怠惰浪費の弊風」とか「勤労の美風を害する」ことが公序良俗に反するという考えになるが、これは一種の倫理観や価値観に過ぎず、到底現代社会では通用しない。国が国民に対し一定の倫理観を強制できる時代では最早あるまい。何をもって公序良俗というのかは、時代毎の風潮や社会の熟度や民意のあり方によっても、変化していくことが現実であろう。明らかにこの司法上の法益の解釈は昭和25年当時の社会的な倫理観を反映したもので、現代社会においては、既に妥当性をもった考え方であるとも思えない。
刑法上の違法性を阻却する正当行為とは、国民が納得しうる公益が存在すること、守られるべき法益に配慮した措置がなされること、かつこれを主張するに足る政策的理由が存在することが必要な要件になる。
この内、守られるべき法益とは、昭和25年代に最高裁が指摘したような労働価値観や倫理観では無い。賭博行為は、成人個人が自己責任の範囲で行う場合、健全な娯楽以外のなにものでもない。一方、もし何の規制もなく、これを放置した場合、健全さが損なわれるリスクがある。不正やいかさま等により国民が被害を被ったり、組織暴力団や反社会勢力がその運営に関与したりすることになれば、社会秩序は確かに乱れうる。かつ賭博依存症等の社会的に好ましくない事象が生じる可能性もある。守るべき法益とは、この様な不正、いかさま、組織悪等から国民を保護することであり、賭博行為を公正、公平な規範で律し、健全な娯楽としての環境と社会秩序を保持することにあるべきであろう。しっかりとした制度や規制により、賭博行為から不正や犯罪等が起こらない仕組みを提供することにより、賭博行為自体を健全化、安全化することは、不可能ではない。賭博行為を管理することにより、健全化、安全化し、政策的にそのメリットのみを引き出す考え方は、諸外国でも実践され、立証されているアプローチになる。
では、賭博行為としてのカジノを認めることになる国民が納得しうる公益とは何か。カジノ賭博は、本来収益性の見込まれる事業でもあり、その否定的側面を規制し、民による施行を認め、これを管理することにより、国や地方公共団体にとり、税収増、雇用増、地域振興、観光振興等に寄与することができる効果的なツールにすることができる。従来の公営賭博制度においては、国民が納得しうる公益の存在とは、公的主体自らが施行者となり、賭博事業がもたらす収益を公共目的への使途に限定することを「公益性」の根拠にしてきた。現代社会におけるカジノ賭博を施行する公益とは、単なる税収のみではなく、民の活力を利用して来訪客を増加させ、雇用を増やし、地域を経済的に活性化させる枠組みを実現するという複数の狙いがあることが特徴的になる。
現行刑法と賭博罪の制度的枠組みが構築されたのは、刑法が制定された明治30年になり、それ以降、第二次世界大戦を経て今日に至るまでその基本は変わっていない。一方、市民社会の進展や国民の倫理観、公序良俗のあり方も、明治の時代と平成の時代では既に大きく変わってきているのが現実でもある。上述した法益としての社会的利益の考え方も、本来修正してしかるべきで、これを決めるのは立法政策、またこれを支える民意ということになるのであろう。