我が国には労働や勤勉・貯蓄を是とし、消費・贅沢・奢侈は否、とする根強い価値観や社会的倫理感が存在する。もっともかかる謹厳実直を旨とする社会的規範は、明治以来、国の為政者が意識的に国民に植え付けた概念でもあろうし、必ずしも国民の中に内在していた価値観ではない。富国強兵、国を強くするために勤勉であるべしという環境があった場合、余暇に関わる余裕も、金もないというのが実態でもあったのだろう。この状況は、明治、大正、昭和と変わらず、国民に余暇とゆとりが生まれるのは戦後高度成長期を経てからの時代になる。国民が豊かになり、家計における可処分所得と時間的余裕が増えている現代社会にあっては、消費を否定的に捉えるかかる考え方は、最早時代遅れの何者でもない。余暇の過ごし方も、多様な可能性と選択肢が認められるべきであり、国民のかかる消費を促すことはおかしな政策ではありえない。エンターテイメントや健全なる娯楽としての賭博行為も成人の自己責任で担うべき余暇の一部でしかすぎないとするのが現代先進諸国のあり方でもあろう。
最も、我が国では、社会的に不適切な主体が賭博行為に関与してきたという歴史的経緯も事実もあり、国民の中には、賭博行為に関する獏とした不安感、不信感が存在し、暗いイメージと共に、語られてきたのが現実でもある。この結果、本来賭博行為自体があたかも適切ではないもの、好ましくはないものと思われてきたという背景もあり、新たな賭博行為を制度化することに目に見えない不安があり、これが社会的な情緒的不安感を醸成している嫌いがある。一つの悪い経験や知識が連想により不安感をもたらしており、社会的倫理観もあい伴い、否定的な要素を構成してしまっている。これはたぶんに論理ではなく、情緒ないしは感情(エモーション)がその原因であることが多い。一方、例えその端緒が情緒的なものであっても、一端社会に根付き、長年にわたり存在する価値観や社会的倫理観として根付いた考え方は単純に変えることはできない。国民がゲーミング賭博を健全な成人の娯楽として認知し、その安全性、健全性、公平性を担保する新たな制度的な仕組みを正確に理解することができたとき、初めてかかる否定的なパーセプションを払拭することができるのであろう。
このためには、下記が必要である。
① 賭博行為の安全性や健全性を担保する制度や規制の仕組み、不正やいかさま等を防止する運営監視のあり方等は過去数十年間に渡り、諸外国でも実践されてきたという経緯もある。その精緻な枠組みは如何なる国でも基本的に適用可能である。国民は、この事実や現実を正確に知らないし、理解できていない。単なる賭博を認めろといっている変な主張と誤解されてしまっている。適切な情報提供が無い為に、誤解が不信を招いているという側面もある。よって、国民に対し、正しい情報を適切に提供し、偏見や誤解を排除しつつ、エンターテイメント賭博を成人が自己責任でなす健全な娯楽、エンターテイメントの一つとして正当に位置づけることを促すことが必要である。
② また、施行から未成年者を隔離し、積極的にこれを保護することを政策の全面に打ち出すこと、あるいは施行がもたらしうる社会的病理でもある依存症患者問題等に関しては、従来のように無視することなく、これを予め認識し、適切な対応措置、予防措置をとること等により、国民の不安を払しょくすることも極めて有効な施策となる。
③ 尚、制度として賭博行為をしっかり位置づけ、将来的には現行の公営賭博、遊技をも包含する形で、ある程度整合性、一貫性のある制度的体系として全体を再構成する必要がある。曖昧な制度をそのまま放置しておくことは好ましいことではない。
国が道徳的、社会的な価値観で国民を指導する時代は既に終わっている。国民の間に余暇活動としての賭博に対する需要が存在する限り、これを積極的に認め、健全かつ安全なエンターテイメントを提供できる仕組みを提供し、かつその健全さを担保することこそが国が果たすべき役割でもあろう。