ところで賭博行為は如何なる構成要件があれば成立するのだろうか。この問題は、そもそも賭博とは何かということに繋がるのだが、我が国の制度や法律では、形式的に賭博行為を捉え、その中身を考えるという議論が欠けている。これは法律上、必ずしも精緻な形で、「賭博」行為の定義をとらえているわけではないという事情があるからである。一国の制度や法律がどうこれを定義するかにもよるが、慣習法の国である米国では賭博行為とは三つの要素から構成され、この三つの要素を満たす場合のみが「賭博」になると法的に判断されている。この三つの要素とはConsideration, Chance, Prizeになる。これらの三つの内、どれか一つでも欠けていればそれは賭博行為ではないことになる。
Considerationとはちょっと分かりにくい英語になるが、一般的な法律用語としては「一定の約束事に呼応して何かを行うこと」を意味する。この場合、金銭的なConsiderationと非金銭的なConsiderationがある。前者は金銭の支払いであり、後者は時間や努力の消費等を意味する。賭博行為を構成するConsiderationとは当然金銭の支払いを意味する。約束事に呼応した行動でも、金銭の支払い(報酬)が無い場合(例えば反対給付を要求しない寄付行為)は賭けごとではない。逆に、負担のない行動により、金銭的報酬を期待できる場合(賞品・賞金はあるが、参加者にとり費用ゼロで勝てばもらえるようなテレビのクイズ商品)も、これは確かに賭博とはいえないだろう。もっともあまりにも高額になったり、射幸心を煽る提供の在り方になったりすると我が国では景品法等別の法律の対象になり規制がかかる。もう一つの要素であるChanceとは「僥倖」とでも訳すのであろうが、これはスキル~技量~(Skill)の反対概念になる。ゲームがスキルのゲームなのか僥倖のゲームなのか、どちらの要素がより優っているかという判断基準でテストすることにより賭博か否かを判断しようとするわけである。例えば囲碁や将棋が明らかにスキルのゲームであることは、誰も異論をはさまないであろう。マージャンも明らかにスキルのゲームになる。一方、おじいちゃん、おばあちゃんでもできるスロット・マシーンはスキルのゲーム等とはだれも思っていない。誰もが公平にかつ同等に、確率的に勝つ可能性があることというのが僥倖の原則になるからである。スキルが主要な要素になる場合、これをスキルのゲームというが、この勝者は明らかにスキルが優っているから勝負に勝つのであって、この勝者が何等かの賞金を取得する行為自体を定義上、賭博というのはおかしい。将棋の谷川名人がスキルにより勝負し、賞金を1000万円もらったとしても、この行為自体が賭博になるとは誰も思わない。もっともこれを横から見ていて、どちらかが勝つかに金を賭ける行為を外部でするとすればこれは賭博行為になる(この行為にスキルは関係ないからである)。もう一つの要素はPrizeで「賞金、報酬」とでも訳すのであろうが、これは上記二つの条件を満たしているゲームの勝者、あるいはかかるゲームの帰結に対し、賞金・報酬があるか否かということになる。スキルのゲームだろうが僥倖のゲームだろうが、勝っても一銭にならなければ、賭博になるわけがない。遊技(パチンコ、パチスロ)は金銭を賭しているわけではなく、玉やメダルを借りて、ゲームを楽しみ、結果として勝てば、景品を取得できる。この段階までは全く健全なアミューズメントセンターと同一と判断すべきだろうが、一旦パチンコホールの外に出るとこの景品は第三者が運営する景品交換所で金銭に交換できるため、間接的ではあるが、結果的にゲームを楽しみ、勝てば金銭を取得できるのと同じ効果をシステムとして提供していることになる。但し、制度としては曖昧な領域に入り、これを賭博といえるか否かは議論が分かれる所となる(勿論警察当局は行政上の解釈として、賭博ではないとしているが、これは司法上の判断ではない。よって法律上は極めて曖昧な領域に属することは明らかであろう)。
禅問答の要素みたいな議論を展開したのは、実は我々の日常生活の中で、賭博行為ではないが、限りなく境界線にあり、合法といえるのか、違法といえるのかが極めて曖昧な類の行為が結構世の中には存在するということを理解するためでもあった(例えば最近でいえば、ソーシャル・ゲーム騒動等がある)。賭博行為の一部側面を持つ行為、あるいは類似的な行為は、現代社会には様々なものが存在するわけで、何が賭博行為で何がそうでないのかは本来、明確な判断基準を設け、合理的に定義することが必要なのであろう。但し、これは単純ではない。一端、境界を超えて、賭博行為になれば、刑法上の罰になる。一方、限りなく類似的な行為をしつつも、賭博の構成要件をはずせば、それは賭博ではないということになってしまう。もっとも米国の様に、明確に賭博の構成要件を定義すると、法の抜け穴(ループ・ホール)を探す行為が横行し、境界線上に判断がつきかねない曖昧なものが沢山生まれてしまうという懸念はある。
世の中にはかくも複雑かつ多様な現実があるということを理解すべきなのかもしれない。何が違法で、何が違法でないのかは実は紙一重ということにもなるわけである。これではなかなか庶民には理解できない。だからこそ、どうしても一線を踏み越えて、違法領域へと入ってしまう国民が多いのであろう。これでは、国民を保護することは難しくなってしまう。何が違法で、何が合法かは本来解りやすい制度であるべきなのだが、現実はそうなってはない。ここに賭博制度のあり方の難しさがある。