宝くじやロッテリーは、これを運営し、収益を上げる主体にとっては、これほど、リスクもなく、確実に収益を得られる手段もめずらしいはずである。何しろ、くじを印刷する費用は高くなく、これを販売する費用も左程高くつくことはない。人が密集する商業地区に販売委託先の小さな建坪のセールス・アウトレットが沢山あれば、確実にくじをより多く売却できるとともに、収益も増やすことができる。しかもアウトレットの費用を安くすることができれば、その数を増やせる。より宣伝に費用をかけられる。人気がでて、売れれば売れるほど収益は増すことになる。よって売り上げを伸ばす戦略は、①安いコストでアウトレットをできる限り多く設置すること、②人が行き来する目だった地点にアウトレットを設置すること以外にはない(インターネットを利用し、くじを販売することができれば、費用を殆どかけずに、アウトレットを無数に設置することに等しい効果をもたらすことになる)。宝くじやロッテリーは、発行体にとっての簡易性や、運営費用の安さ、税収の確実性、安定性、リスクの無さ等の点で、他の賭博種と比べると極めて効率がよい。だからこそ、宝くじやロッテリー等のくじ系の賭博種は、歴史的に様々な国々の為政者により、公的主体が自ら主催する税収確保の手段として活用されてきたのが実態でもあった。民に委ねるのは事務的な手順や販売行為のみで、くじの主催者はどこの国でも基本的には公的主体であることが基本になる(民に委ねるにはあまりにも超過利潤が大きくなりすぎるからである)。いまやこのロッテリーや宝くじは共産主義国家にも存在し、これが無い国を探すほうが大変である。賭博であるにも拘わらず、参加している国民にとり、賭博をしているという意識が薄くなることがこの賭博種の特性になる。また庶民に夢を与えるというPRは、限りなく、賭博行為であることを希薄化してしまう。ひょっとするとあたるかも・・と庶民の心をくすぐる仕掛けとなっているのだが、実は大当たりとなる確率は、飛行機事故にあう確率よりも低い。これもパリミュチュエル賭博の一種になり、競技の帰結ではないが、主催者が抽選で選ぶ全くの僥倖にお金を賭けるという賭けごとでしかない(尚、2011年超党派議員連盟と関連省庁との議論の過程で、「宝くじは賭博ではない、庶民に対し夢を売っているだけ」と公言してはばからない官僚がいたが、政府の見解としては如何なものか。又、あたれば・・億円と国民の射幸心を煽るTV広告を派手に流して売上増を期そうとすることが通常の如く行われている。制度として一旦認知されれば、なんでもありというアプローチに等しく、果たして適切な行為といえるのかに関しては大きな懸念がある)。
このタイプの賭けごとのもう一つの特性は、インスタントくじの様な例外はあるにしろ、賭けごとの帰結がわかるまでの時間的スパンが比較的長いことにある。だからこそ、賭博をしているという感覚ではなくなってしまうのであろう。もっとも売上を増やすために、時間的スパンが短いスクラッチ・カード等のくじが多量に市場に投入される性向があったり、ジャック・ポットと呼ばれる最高賞金を高額にすることにより賭博性の高いくじが導入されたりして、多種多用なくじ系賭博種が市場に投入され、射幸性が高まりつつある。また、インターネットを用い、個人が保有するコンピューター端末を通じて、クレジット決済で電子的に宝くじを販売することが一部諸外国では試行されつつあり、わが国でも、2012年の制度改革により、くじのネット販売が実現する方向性にある。これにより、費用をかけずに、飛躍的なくじの拡販を実現できる可能性が高まる。一方、技術の発展は、これ以上に賭博行為を進化させつつある。スクラッチ・カードの原理を応用し、これをすべて電子化し、サーバーで管理しつつ、無数の端末機械で販売、このオペレーションをナノセカンドという瞬時に行ってしまうシステムと機材が欧米諸国に登場した。これをビデオ・ロッテリー・ターミナル(VLT)というのだが、顧客の立場から見れば、外見も、実際の遊び方も、実態もほとんどスロット・マシーンそのものの様に見える。但し、このロジック自体は宝くじ(スクラッチ・カード)で、たとえば数千台の機械をサーバーが管理し、サーバーが当たりくじを引き、端末機械が瞬時にそれを認識するという具合で機能する。この様に、技術やシステムの発展は、バンキング・ゲームとなるゲーミング賭博と一部のパリミュチュエル賭博との境目を限りなく無くす機械やシステムを提供するに至っている。制度や考え方から言えばロッテリーだが、実態は限りなくスロット・マシーンということになる。これをロッテリー販売の端末機械と称しているわけで、米国、カナダ、そして中国にはいまや無数のロッテリー端末機械(実態はスロットマシーン)が存在する。こうなると、何がロッテリーで、何がスロット・マシーンなのか、実際にこれを楽しむ顧客には全く理解できなくなってしまう。
これは賭博行為の定義の在り方次第では、技術の発展は、全く異なるゲーム種を実質的に同一のものにしてしまうことができることを意味している。例え異なった制度をバラバラに作っても、実際のゲームはこれとは全く関係なく、技術的には殆ど同じになってしまうものを作れるということになる。勿論これでは一種の法の抜け穴(ループホール)に近い考え方になってしまう。ことの善悪は別に、制度が現実においついていけない事例の一つなのだろう。こうなると、制度自体に意味が無くなってしまうリスクが高まることになる。