賭博行為を制度として認めるか否かの議論に際し、必ず問題になる一つの議論として、賭博行為は犯罪の温床であって、かかる行為を認めれば関連施設内部や周辺地域において確実に風紀が乱れ、犯罪が増大する、またこれにより地域社会の公序良俗が乱れるという論点がある。果たして本当であろうか。先進諸外国の殆どにゲーミング・カジノ施設は存在するが、特定の場所にゲーミング・カジノ施設ができたことにより、犯罪が増えたことを立証する確たるデータは無い。国民の常識的感覚からすれば、やくざ、暴力団と賭博行為はイメージ的に結びつきやすいとともに、ギャンブラーの施設というだけで、日中からおかしな人たちが集まるのではないか、犯罪の温床を構成してしまうのではないかと考えやすい。また、過去の見聞や歴史的事実から、カジノと犯罪を結びつけて連想してしまう可能性もある。あるいは新しい賭博施設を一定地域に認めれば、暴力団がこれに関与するリスクがあるのではないかとか、この結果犯罪が増えたりしかねないのではないかという庶民が抱える漠とした感情的な心配もあろう。
諸外国においても、現実にかかる事象が生じているのであろうか。既に述べた通り、所謂ゲーミング賭博の特性そのものが悪や不正、組織悪の介在を誘引しやすい性格を本来的に保持していることは疑いない。何もせずに、自由市場において単純な認可事業としてこの存在を認めてしまえば、そこに不正や悪、組織悪が介在するようになり、これが犯罪を誘引したり、社会的秩序を乱したりすることはありうるかもしれない。米国においても当初マフィアがカジノに介在したのは、規制や制度等が実質的に存在しなかったからという背景があったからである。ただし、1960年代後半以降、段階的に厳格な制度や規制が整備されることにより、組織的にカジノからマフィアを追い出し、賭博遊興施設の健全化、安全化が実施されたことも歴史的事実となる。60年代以降の米国における経験は、犯罪や悪をゲーミング・カジノから撲滅させ、ゲーミング・カジノを庶民が楽しめる健全なエンターテイメントとして、かつ上場企業も参入する普通の産業へと昇華させた歴史でもあった。このために制定された制度や規制は一種の産業規制でもあり、ゲーミング・カジノに関係しうるあらゆる主体の参入要件を厳格に規制し、施行に関与する人達に徹底的な清廉潔癖性を要求し、コンプライアンス(法遵守)を強制する考えと手順になる。この結果、カジノを新たに設置したことにより、犯罪が増えたり、この事実が悪や組織悪を追加的にもたらしたりしたという統計や事実は米国には、殆ど存在しない。なんとなれば、悪事をなす者や組織悪にとり、カジノで悪事をすれば、確実に露見するシステムや規制、監視が存在するからで、例え悪事をしても、すぐ逮捕され、厳罰の対象になるようではペイしないからである。たとえば、カジノで有名なラスベガスにおける犯罪検挙率は、この安全な我が国より遥かに高い。監視も法の執行も厳格で、全ての行為は頭上から監視カメラで監視されている以上、悪事は確実にばれてしまうのがラスベガスになる。そうなると犯罪は、確実に割に合わなくなる。犯罪することが割に合わないことが知れわたると、悪人も組織悪もよりつかなくなる。だからこそ米国では法の執行を厳格にし、犯罪を遮断するあらゆる措置がとられているわけである。逆にもし、法の執行が甘い環境であるならば、今でも悪や組織悪がはいりこむリスクは零ではあるまい。カジノ場内において犯罪が起こりえない環境をどう構築できるかが鍵でもあり、これが実現できれば、カジノが犯罪の温床等となることはありえない。
カジノから犯罪を根絶させるようにあらゆる措置を図るという米国におけるかかる経験はその他の諸外国でも模倣され、新たに制度を設け、カジノ賭博施設を実現した国々では、類似的な制度や規制が施行されるに至っている。一般的にこれらカジノ施設の設置が、明確な犯罪増加に繋がったとする事実は存在しない。勿論カジノの如き大規模集客施設は、それが無い時点に比し、多くの来訪者や観光客を特定地域に呼び込むことになり、人口比率からいえば、何処でも生じる一定の犯罪行為の増加はありうる。集客施設とは、外部から特定の施設に多くの顧客を集める施設となり、瞬間的に当該地域の人口が増える場合、その数に応じて、コソ泥や盗難等の一般犯罪の件数も増える傾向にある。但し、これはカジノがあるという理由により犯罪が増大するという理屈には繋がらないと考えるべきであろう。