これまで述べてきたように、賭博行為には賭博行為に特有の潜在的なリスクがある。また、このリスクの在り方は賭博種によっても異なってくるとともに、放置した場合、これら潜在的リスクが顕在化する可能性も高いという事情がある。よって、公益性や一定の政策的理由を目的として賭博行為を制度的に認める場合、①これら潜在的リスクを適切に管理し、顕在化しないようにすること、また②完璧に避けることのできない社会的に否定的なリスクの場合には、できる限りこれを抑止したり、社会的なセフテイー・ネットを構築したりするなど様々な配慮をすること、かつ③例えリスクが顕在化したにしてもその影響を最小化し、修復できるように措置することが、現代社会における賭博規制の基本的な考え方になる。
おもしろいことに、このあり方は基本的な考えとしては共通でありながら、その実践の在り方は、国毎に微妙な差異があり、その国の制度や社会の状況を反映する。例えば我が国の公営賭博法制の基本は昭和20年代中葉から後半に制定された頃の考えでもあり、当時の倫理規範、社会の実態、制度上の考えと国民の民意を反映する。不正やいかさまをもたらさない最低限度の規制は勿論あるのだが、より積極的に、賭博行為が社会全般にもたらしうる危害やリスクを未然に防いだり、賭博行為が必然的にもたらしてしまう社会的弱者を積極的に保護したりする考え方はここには全くない。専ら、収益を確実に公的主体が吸い上げることが当時における唯一の政策目的でもあり、かつ公益でもあったからで、制度は不正を防ぐこと以外の社会的関心事を無視していたことになる。その後、現実の社会的環境や国民の関心事は大きく変化しているのだが、この制度がなんと半世紀以上、何ら変わらず、継続しているわけである。
所詮賭博は必要悪、例え認めるにしても過度の射幸心を煽る行為はご法度、公的管理のもとで、あくまでも抑制的に、かつ制限的に施行するというのが当初の我が国の公営賭博の政策的意図でもあったのだろう。パリ・ミュチュエル賭博の場合には、確かにこの考えでも機能しうるし、致命的な問題は生じえない。但し、現実的には公営賭博にあっても、賭博依存症の問題は社会的に存在するのだが、何らの現実認識も、対応も、政策的配慮もなされてこなかった。また、既存の公営競技場周辺の環境問題など、現実にある問題も存在しないとして、社会的に否定的な事象にはできる限り目をつむってきたことが実態なのであろう。公営賭博はその成り立ちそのものが、省庁間の縦割り制度のもとでバラバラに、最低必要な規律により、公的主体による収益事業として営まれている仕組みでもあり、ここには社会的に共通の問題の認識や、国としての調整が必要となる項目に関する認識もない。省庁に省利省益をもたらし、これを維持することが最重要で、社会にとっての賭博行為がもたらしうる共通的な課題や本来考慮すべき否定的な事象は誰も取り上げないし、無視されてきたのであろう。これを取り上げる政策的意思もなければ、体制も、これを支える予算も無く、問題は存在しないとした方が、官僚的には都合が良いことになる。果たしてこれが、先進法治国家たる日本がとるべきあり方なのか、懸念なしとしない。既存の制度的枠組みあるいは官僚機構の仕組みの中からの発想ではこの問題を解決することはできない。官僚に問題の処理を委ねず、政治がより積極的に行動しなければ、問題を解決することはまず難しい。よって、政治的なイニシアチブで問題を認識し、これを制度的に解決する努力をすべきであろう。
賭博規制の本来のあるべき姿とは、射幸心を煽ることは好ましくないということでこれを抑制し、規制することではない。また、国が人為的に射幸心の判断基準を設けることは適切な考えであるとも思えない。あくまでも成人個人が為す、一つの遊興としてこれを捉え、認める場合、適切な公的管理のもとに、国民を保護するために、公平性、健全性、安全性を担保することこそが、国が考慮すべき政策でもあろう。かつそれが社会にもたらしうる危害があるとすれば、このリスクをできる限り縮小化し、国民や市民をかかる潜在的危害や悪影響から保護すること、かかる危害を未然に防ぐとともに、例えそれが生じてもその影響度を最小化することにこそ規制のあるべき姿がある。この諸外国で実践されている本来の賭博規制の考え方にたち戻り、わが国も公営賭博制度を含めて、賭博法制のあり方を再考する必要があるといえる。その際、規制の為の規制では無く、規制や制度はあくまでも国民を保護するためにあるという基本を忘れるべきではない。