トランプやサイコロ、あるいは何らかの器具や道具、電子式機械等を用いて、金銭を賭ける遊興をゲームないしはゲーミングと諸外国では呼称している。また、金銭が勝金となるかかる賭博行為を顧客に対し、サービスとして提供する業を「カジノ」という。カジノの経営主体は胴元と呼ばれるが、胴元という表現は顧客から金を召し上げるというニュアンスに満ちており、日本語ではどうも品が無い言葉になる。米国流にハウスという言葉の方が、どう考えても、しゃれている。カジノにおけるデイーラーとはこのハウスの従業員になり、勝ち負けのリスクをハウスが担いながら、一定のルールに基づき顧客と対峙しゲームを提供していることになる。ハウスが顧客にサービスとしての賭博行為を提供し、ハウスと顧客が合い対峙し、勝ち負けを競い、これにお互いが金銭(実質的には金銭と交換可能なチップ)を賭けていることになる。
何のことはない、通常の賭博行為でもあるのだが、ゲーミングという以上、一定の遊びの「ルール」があり、その勝ち負けは運、あるいはスキルにもよるとはいえ、賭け方やその賭け方がもたらす確率値に左右されることが多い。カジノでは、一見デイーラーと顧客とがお互いに競っているように見えるのだが、実はデイーラーは顧客にゲームを提供しているだけであって、一定の合理的な手順に基づき、冷静に定められた行動をとるという教育を受けている。顧客と無鉄砲な?賭けをしているわけではない。実態は顧客が自分の判断で勝手に選択的行動を行い、賭け事と勝ち負けを楽しんでいるという構図になる。理論的、確率的には、時間をかけた場合、かかる賭け事の究極の勝者は、これを提供するハウスになる(即ち、胴元が常に最後の勝者になる)のだが、スポットで見れば、お互いが勝ったり、負けたりしている「遊興」ということになる。
賭博行為は、本来、単なる遊興の一つでもあり、人類の発生と共にその歴史は古い。一方、かかる賭博行為を胴元が組織化し、特定の場所で顧客に対し提供する商業的な仕組みが生まれたのは17世紀のイタリアといわれている(カジノはイタリア語のカッシーノ、「小さな家」とでもいう意味がその語源になる)。今はやりの言葉で言えば新しいビジネス・モデルということなのであろうが、貴族や富裕層等の特権階級を対象にチップという現金交換可能な、しかも賭けやすいツールを利用し、一定のルールのもとにゲームをさせ、金銭を賭けさせてゲームを楽しませる遊興をサービスとして提供することをビジネスにしたわけである。この仕組みは、胴元(カジノ・ハウス)に巨額の利益をもたらすことになるのだが、これに着目し、これをビジネスとして活用しようとしたのは、企業家というよりも、時の為政者でもあった。特許料ないしは、許諾料を賦課することの対価として、独占的に一定地域でカジノ施行を担う権利を特定の民間主体に与えたり、その売り上げに対し更に課税権を行使したりして、一国の重要な財源の一つにしたわけである。特権として保護することにより、閉鎖的、限定的にかかる営みが存在してきたのが近世から現代におけるゲーミングを提供するカジノの発展の流れになる。
もっとも不特定多数の顧客が頻繁に巨額の金銭のやり取りをし、巨額の収益を生み出すこのカジノに惹かれたのは為政者のみではない。顧客に解らないように、いかさまや不正をすれば、より確実に顧客から暴利をむさぼることができる。また、顧客と胴元との個別の取引は正確に記録されないというカジノの在り方は、脱税や犯罪収益の隠匿、あるいはマネー・ロンダリング等には最適な環境を提供することから、近世から現代にいたるまで犯罪組織や、組織暴力団を惹きつけ、かかる社会的悪がカジノに関与していくことが生じてしまった。例えば、第二次世界大戦後から1960年代頃までの米国では、マフイアを中心とする悪や犯罪組織がカジノに関与してきたことが歴史的事実になる。米国のみならず、過去あらゆる国でも、賭博行為と犯罪行為や組織悪との係わりは、存在し、切っても切れないものという通念が存在したことも事実であろう。但し、これは過去の歴史であって、1970年代以降、制度や規制が段階的に、かつ精緻に構築され、あらゆるカジノ賭博からマフィアや組織悪が放逐されたのが現実になる。欧米諸国に存在する現代的なカジノ施設には、もはや悪も犯罪も、組織悪も無い。カジノやゲーミング賭博は、健全かつ安全な娯楽ないしは遊興の一つとして現代社会に定着している。
如何なる状況や環境の変化により、かかる安全化や健全化が実現したのであろうか。また、如何なる制度と仕組み、規制がこれを可能にしているのであろうか。これらゲーミング賭博に係る様々な問題を連載として、解説していくのが本コラムの目的である。