インターネットによる賭博行為を法律上禁止することに対しては、賛否両論があり、制度上これを認める施策をとっている国もあれば、これを禁止する国もある。単純に禁止するのではなく、これを認めて、積極的に規制の対象にすべきという考え方も多くの国々により支持されている。
これは単純に禁止しても、下記問題が解決できないからである。
① 制度上禁止したとしても、違反行為に対し、法の執行はできず、禁止する意味が全く無い:
例え法律上禁止しても、物理的、技術的に違法行為を立証し、摘発できにくいこと、法を効果的に執行しようとすれば膨大な経費、時間、人的費用が必要となり、事実上これは不可能に近いことになってしまう。特定サイトへのアクセスを禁止するブロッキングやフィルターリング等の技術は存在するが、完璧ではないと共に、誰が、何を、どのように規制するのか次第でもその効果は異なる。即ち、単純に禁止するだけでは法の執行はできにくく、効果的な禁止措置は難しいのが現実となる。
② 事業者が海外からサイトを提供する場合、これを効果的に規制することは難しい:
例え一国内でインターネット・ギャンブルを禁止しても、サイバー・カジノ産業自体は外国(オフショア)に存在することが多く、制度や規制の対象外となってしまう。この場合、国民によるアクセスを止める効果的な手法もなく、かつかかる外国からのサービスを規制し、止めさせる手法も無い。外国に存在するサイバー世界の事業者を国内法で規制することはできない。
③ 外国の事業者を対象とし、法を執行すれば、外交上の課題も発生しかねない:
例え一国が外国のインターネット事業者に対し、司法管轄権を保持したとしても、これを執行することが外国政府との間で統治主権上も問題を引き起こしかねない(例えば、ネットにより自国民に対し賭博を提供するために、接触を図ったという利用により、一国の法廷が外国企業を被告として提訴するなどの場合である。米国は過去、外国に在住するネット賭博事業者の経営者が、米国に立ち寄った際に、これを逮捕したという経緯すらある)。外国に正当に存在する企業である場合、外国政府との間で政治摩擦がおきかねない。
よって、禁止するだけでは、問題は解決できえないことになる。インターネット賭博は国境という壁が無い世界でのサービス提供になるがために、単純にこれを禁止するよりも、逆にこれを認めて、厳格な規制と監視の対象とすることがより、公正さ、健全さを担保できるのではないかとする考えがかなりの国において認識されつつある。これはネット事業者を物理的に自国に設置させることにより、規制・監視・管理の対象とし、健全、安全、公正な領域をサイバー空間に設けることにより、国民や消費者をこの安全な領域へと誘う考え方になる。
これは下記考えをとる。
① 事業者、ゲームの提供行為全てを規制機関による免許・認証の対象にする:
厳格な審査に基づくライセンス付与により事業者の公正さやシステムの公正さ、健全性を国の規制機関が認証する。この場合、通常の陸上設置型カジノ事業者と同様に、企業、その構成員、主要株主等が免許・認可の対象になる。このためには、原則自国内に当該事業者の事業所を設置せしめ、かつサーバーもソフトウエア・システムも全て自国内に設置することが前提になる。また、当該事業者の売り上げ、ないしは収益に対し、当該国は課税権を行使する。
② ゲームの提供に係わるハード(サーバー等)・ソフト(システム、ゲームソフト等)は全て認証、監査・検査の対象にし、かつ規制機関は事業者と顧客データ・取引データを共有する:
サイバー世界における当該主体による賭博行為の提供そのものが全て規制の対象になり、サーバー、賭博システム、ゲームの内容・ソフトウエア等の全てが規制当局による認証・認可の対象となる。かつその運営は監視・検査の対象になる。顧客データと取引データ記録も規制機関に対する開示の対象となり、これらデータをオンラインで共有することで、全てをガラス張りにして監視の対象とする。またこれにより、賭け金総額と勝ち負けを正確に捕捉することができ、確実に課税行為ができる。
③ サイバー空間に安心、安全、公正な領域を設け、顧客に選択をさせる:
上記に伴い、国の規制機関がその公正さ、安全さを担保し、認可を与えたサイトとそうではないサイトが併存することになるが、安全なサイトへと国民を誘導する施策を取ることになる。有害サイトは無くならないが、利用者にリスクを判断させ、選択させることを基本とする。
サイバー世界を国際的に規制し、統一的な施策を様々な国々との連携で考えることは現状では非現実的になる。ブロッキングやフィルタリングは不可能ではないにせよ、未だ完璧な技術は無く、ループホールは生じうる。個別の国の中で、顧客の選択により、顧客を安全、公正な領域に誘い、保護する仕組みの方が禁止するより、より現実的、かつ効果的になると考えるわけである。